コロナって結局何なんだ?
最近また、コロナウィルスがよくわからなくなってきた。というよりも、コロナとはもはや何かのシンボルのように思えてきた。
2020年突如人間界の人目にさらされることになったコロナウィルスって何なんだろう。
年明け、武漢で新型コロナウィルスがくすぶり始め、WHOの医師などがワイド番組で日本に上陸したらまずいと警鐘を鳴らし始めたとき、私が最初に思ったのは人間のおごりだった。まずウィルス名に「新型」という言葉がついてあることからして、人間てこの世に存在するすべてのウィルスをまるで掌握しているような気がして、その響きに嫌悪感があった。
ところが日本に上陸してくると、私ってけっこうビビってたほうだと思う。自分が感染することよりも、自分の大切な高齢の方や医療従事者の友人が感染すると思うどうにも恐ろしくて、もっと踏み込めばコロナは死に直結したイメージとなってしまった。それにはイタリアやスペインなどのロックダウン、NYで死体置き場がなくトラックに冷凍されて遺体が防護服のまま積み込まれていくような映像の影響もあったと思う。
これが私たちの未来かと思うと、緊急事態宣言下は絶対にステイホームを順守すべきことに賛成で、お気楽な人を心の中で責めたりもした。
そこから半年間、新しい生活様式と謳われて、私はたくさんの人と励まし合いながら生きてきた気がする。一言でいえば、このパンデミックはなんだか地球上の禊のようであり、やりたいほうだいやってきた人間への再思考の時期を存分に与えられら気がした。
コロナウィルス感染者が増えると経済活動と対立する構造にも違和感を感じる。どうして健康の遵守と経済活動(つまり生存すること)は相反するのだろう。ウィルスを運搬できるのは人間の身体だけだとしても、人は貨幣をいただくことでしか生存できないという日本社会にもなんだかなぁ…としっくりこないものがある。必要なものは地球に産まれている時点ですべて与えらているはずだ。動物はそのように暮らしているだろう。ところが人間だけは産まれたって、どっかに雇用されて貨幣という金や銀や銅ををもらわないことには、食べることさえできないのだ。なんでだろうなぁ、と思っても結論は出ないのだが、なんでだろうなぁ、と思う。
人が一つのものに恐怖する現象は非常に興味深い。操られているように恐怖している。もうこの世はコロナが勝利した。人間より強いものが現れた。われらはそれに従うしかない。神や仏でも処理できない…そんな課題にぶち当たっているような気がして、コロナから支配されてにっちもさっちもいかない現状に
「私の人生なんだったんだろう」
と多くの女性はおそらく過去と自分を舐めまわすように反芻して振り返り、己は愚かだったのだ、と見下げて自殺していった。雇用を打ち切られるということは、「人生これでよかったのか?」という命題を突き付けられることと同義だ。だから人は死ぬ。今以上になりえない未来が見えると人は死んでしまう。これもまた上昇ばかりを勝利と置いてきた人間観の転換がはかられねばならないことだ。強き者が生きる世界が世界だったら、そんな世界は終わったほうがいい。コロナの警告はそれほどまでに強い。
思うにコロナは発生以来、色んな象徴を引き受けている。
死、恐怖、人の罪、歴史、怒り、絶望、落胆、励まし合い、世の終わりの兆候…とまあそんなところだろう。ピラミッドの頂上に立っているようなコロナを人間たちは下から見つめているのだ。そこには様々な立場に立つ人の念が結集している。私たちはしばしば歴史の目撃者となる事件に遭遇する。そういうときはただもう生きるしかない。阪神大震災も、オウム事件も、311もただ、生きるしかなかった。いつもただ生きるだけでいいってことを忘れたときに、歴史の証人となる災害や事件はやってくる。
生きる、ただそれだけなのだよ。
生きる…。
生きる…。
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