人間に完全な自立はありません
完全な自立を果たしている人などいない。完全に自立した人間を描け、と言われても、それは映画でも文学でも不可能だと思う。もし完全に自立した人間(それらはいわゆる聖人君子に見える)を描いた作品があったとしたら、それはキャラを作り込んで作品の上でそうしているだけか、むしろ書き手側や製作側のコンプレックスの投影で完璧に見えてしまっているだけだ。世に完全な人などいない。逆に人が完全に見えてしまったら、その見ている人が節穴であって完全でないのだ。
他人を完全だと思うことほど辛いものはない。他人を完全だと思うと自分の不完全さが際立つし、いつまでもその完全に到達できない錯覚に陥りもがくはめになる。より良い人間になろうとする成長欲を持つことはいいとしても、相手もただの人間であることがわからなければ、その対象を永遠に乗り越えることはできない。相手が人間という不完全さと切っても切り離せないこと同等の存在であることがわかってはじめて、自分のありのままの性格がより具体的に見えてきて、そのありのまま、すなわち自分の不完全さを大きな愛で許容できるようになる。
完璧だと思われてしまったら、そんな視線を向けられた相手だって辛いのだ。宗教者のグルもそんな孤独には悩むだろうし、子供から見た親もそう、権力を持つ者もおしなべてそうだろう。神格化されて嬉しいと思っている人がいたら、それこそその人の未熟さであり、神への領域の心配である。神は神、人は人、人の役割などせいぜいこの不完全さを現世で持たされていることで、それにもがきつつより楽しみより良い結果を生むことくらいだろう。人間が万能に動けると思い込むのはおごりだ。人間が万能であったら、私たちはわざわざ地球に生まれない。地球とは不完全な者の寄せ集めとその勉強の場だ。
完全である生命体が生まれるような場所ではない。神には神の仕事があり、人には人の仕事がある。人がたやすく正解を作って決めることも不可能だし、むしろ人の役割は、正解は何かといつの時代もどこの場所でも考え続けることだろう。
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