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亡くなる時期を選びたい

今週は「台風大丈夫だった?」があいさつ代わりのようだ。
残念なことだが、私の住むところの程近くで高齢者が亡くなったそうだ。

私はあの夜、万が一自分が死ぬかもしれないということを30%くらいは考えた。鳴りやまぬスマホの警報(土砂災害と川の氾濫は交互にやってきた)、町内放送で流れる支流の氾濫の危険。
ハザードマップの浸水エリアに端っこながら入っている我が家。
もしかしてもしかすると私も浸水で死ぬかもしれないと思ったし、2階に逃げたとしても風で電柱や鉄塔が倒れてきたらおしまいだ。

夜18時ころ義母から
「大丈夫なの?避難しなさい」
と電話が入ってきた。
やはり危険な状況ではあったのだろう。

しかし私は考えていた。
「これだけ強い台風が来ているんだから死んだら死んだで仕方ない」と。
これは自然の脅威対する諦めのようなものだったのだが、傍目には私のような奴って人騒がせで迷惑な人なんだろうなと思う。

うちのご近所で亡くなったらしいご高齢の方も、
「どうして避難所に行かなかったのか?行けない事情があったのか?」
とまず問われる。
では、そのご老人が「ワシの人生はもう満足だった、ここらへんでよかろう」と思っていたらどうなのだろう。
それでも避難所に行かなければいけないのだろうか。
1人でも死者が出ることで、災害は悲痛で痛ましいだけと報道され、さらにこれ以後、100%自治体の警報が人々の心に届くように強化されるのだろうか。

死はやっぱり敗北なのだ。
誰にとっての敗北なのかわからないけど、死ぬ準備ができた人が洪水や土砂災害と共に死にゆくことも許されない。
もし私の命が奪われていたとしても、同じように報道されただろうな。どうして避難しなかったのか?こいつ、人騒がせでアホな奴だと。

生きたいと思う人にとって死は敗北なのかもしれないけれど、死ぬ準備ができてる人にとって死は敗北ではない。生まれることと同じように自然な成り行きだ。
陣痛は文字通り死ぬほど痛いもので、それを経験しながら命は産み出される。
同じように死ぬほど苦しい思いをしながら、人は死へと向かう。
その後は、命も死も安らぎが待ち受ける。
けれど、死ぬことはやっぱり敗北らしい。死ぬことさえ人目を気にしなければいけない日本のナルシシズムはどうかしてる。

これだけの大災害が起こるんだから、そりゃ、いつどこで死者がでても仕方ないよ。
国土を守りたいと感じる人は、「誰に対して」をもう1度考えたほうがいい。さらに、「人間だけのために」という発想もいい加減捨てたほうがいい。

人の幸福が地球を不幸にしてきたことは歴史が証明しているではないか。
嘆かわしいのは、歴史上最悪の自然災害でも死ねないことだ。

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