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物語を書く⇒許し

頭蓋骨を突き破るのが物語。物語は誰にでもある。その人の中にある。一分の体験も十年の体験も物語にすることができる。物語は衝動に似ている。あなたのなかにある衝動。少し危険に満ちた衝動。だからこそ物語は出てくるときちょっとまごつく。物語のほうからびくびくしてしまうのね。もしかして、頭がへんになっちゃうんじゃないかしらって、記憶は組み替えられ、組み建て直されることを嫌がるんだ。収納場所をAからB、あるいはA+BにしてC部屋に変えるのが物語を紡ぐということで、これには勇気が伴う。出しているときに顔がかあって熱くなったり吐き気をもよおしたりすることはよくある。そういうときは寝転んで休むか、窓を開けて風に当たる。処女作もそうやって書いた。そのくらいした文章は魂から出ているから、書いてるときは辛くてもあとで読んだらやっぱり面白い。気楽に書いたシーンよかよほど面白い。
小説は主人公が語る。要するに主人公の随筆を書けばいい。主人公になって演じきる。それが小説。でも主人公は私ではないから、私でないものが私とよく似た体験をしてみたり、他人の体験を追随してみたりする。ときどきそれを神視点で引きで描写する。体験はこうして多角的に、他者という主人公に語られる。その自分が生んだ他者の体験を書ききることが物語。最後に生まれるのは許容。何もかも呑み込む赦し。物語の役割は人間は許容であり、自分の許容。

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