闇夜、闇よ
薄闇の円に映りこむ茶色の球体は、金具のような細い筋を巻き込むように携えていた。思わず望遠鏡レンズから目を離した。黄土色に発光する土星、肉眼でも薄暗い闇に目立って見える。土埃の立つ誰もいない中学校のグラウンドは静かで、ネット裏につけた母の車だけのエンジン音が響いていた。姉は街灯にわずかに照らされた掲揚台のたもとで鉄棒によじのぼっている。
親に頼み込んで7万円する三脚付き天体望遠鏡を買ってもらった。初めて見た土星の環。7歳の私は宇宙の神秘にまた一歩近づいたのだ。心臓の鼓動が速くなり、静かに興奮した。将来は必ず天文学者になると心に誓った。
表面がつやつやとてかる天体望遠鏡で、頭上に白く楕円に光を放つアンドロメダ大星雲や、夏の大三角形そばに現れるローズピンクのバラ星雲も見た。おおいぬ座のシリウスという恒星は、太陽をのぞけば最も日本に近い明るい恒星だ。それでもその距離は8.6光年。今グラウンドに注ぐ青白い光も8年前にその星を出発した光。光が地に届くまでの距離を、街灯下に行き持ってきた図鑑を広げて調べていった。同じ夏の大三角形のこと座のヴェガは25光年。アルタイルは15光年。さそり座のアンタレスは550光年……安土桃山の争乱時代の光が壮大な時空を超え、グラウンドにひとり座る私に赤白い光を届ける。「あの星はもう、ないかもしれない」……私の見ている夜の空はなんと果てない時間軸で構成されているのだろう。
毎夜私は望遠鏡を肩に担いでグラウンドに立った。それからレンズをのぞいた。レンズを通して恒星の光が目に入った瞬間、途方もない時空間と混じり合い腰骨を抜きとられるようだった。私が思いを馳せていたのは「永遠」に近い時間軸だ。
家に帰るとランドセルが蓋を開けたまま畳に横たわっている。雑に入れ込んだ宿題のプリントがはみ出ていた。つまみ出したが、こんなものをやってどうなると、子供ながらにため息が漏れた。それでも脳裏には、宿題やらなかった場合の、翌日の先生が眉根を寄せてげんこつを入れる姿が浮かぶ。ほんの15分ほど前まで何百光年前の光を相手にしていた私にとって、そのわら半紙のプリントは心底あほらしいものに見えた。
窓からもう一度夜空をのぞく。東の空に天の川の起点の無数の星々が見えた。人間などこの宇宙には取るに足らない。星々の側から見れば、人間の営み、私の宿題のプリント1枚などなんとちっぽけなことだろう。五等星ほどまで見える田舎地帯で果てない無限性に思いを馳せていた私にとって、人間の最もふさわしい営みは楽しいことだけやって密やかに死ぬことのように思われた。それで宇宙を間借りしている存在の役目は十分果たせるじゃあないか。夜が明ければ父も母もくたびれながら仕事をする。きっと眠い目を擦りながらあくびをして、お店のシャッターをがらがらと開け、通りがかったご近所さんに頬の筋肉を押し上げて「おはよう」と絞り出す。
鉛筆を削りながら、担任の先生にゲンコツ入れられるよりはマシだという思いが勝ってしまう。しぶしぶプリントを広げ、画数の多い漢字を濃い筆圧でニ十個ほど書きこんだ。
二階の二間の襖を取っ払い、私たち家族は四つ布団を並べて寝ていた。
電気を消して目が暗闇に慣れてきたころ、窓から蛍が迷い込んできた。黄緑に点滅した小さな光の玉が、天井にぶら下がった消えた蛍光灯の下を旋回する。二匹、三匹と蛍は先の光を追うように窓の隙間から入ってきた。近所の田んぼの土手には清流が流れている。きっとそこから来た蛍だろう。澄んだ水が駆け抜けるあそこは夏になると毎年自生した蛍が飛び交う。部屋に入った蛍はいつまでも天井にうっすら映える木目の下を旋回していた。豆電球のように淡く小さな光が我が家の四人の上に満ちていた。ときどき光が二つ重なり合いくっついて飛んでいる。雄と雌が繋がっているのだろうか。
翌朝、夏至の近い6月らしい窓を貫通する強い光線が眩しく、目覚まし時計よりも早く目が覚めた。
頭上の畳の上に、繋がったままの黒い蛍の死骸があった。
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