写真家です。
超略歴
1973年京都は宇治に生まれる。
京都精華大学ヴィジュアルコミュニケーションデザイン卒業。
金沢美術工芸大学美術工芸研究科中退。
著書に堕落部屋(グラフィック社)、作画資料写真集・女子部屋(玄光社)。
大学院中退後は、実家で家事手伝いを・・・しながら制作の日々。コンテストへの応募、グループ展、個展など開催しつつ、1998年MiO写真奨励賞での受賞を機に京都へ戻り、フォトグラファーとしてのキャリアをスタート。
京都時代
受賞すれば、安泰という安直な思考回路は静かに崩壊。
下積みなしでいきなりフリーランス、高度な写真技術は持ってない(それは今現在もですが、デジタルテクノロジーのおかげでなんとかやれています)、業界のことはまるでわからず、営業も下手クソでした。(これも今もw)
それでも一応、行けそうなとこには電話をかけてアポ取って、ブック持って営業にいきました。あんまり相手にされませんでしたねぇ・・・。
関西エリアの数少ない情報誌やローカルファッション誌の編集部に、ほんの少しのパンフや雑誌仕事のコピーと、重厚な笑モノクロのポートレイト写真持っていってたんだけど、まぁ、、、ムズいよね笑。
営業成功率0%!仕事は増えませんでしたとさ。
京都時代は雀の涙ほどの商業写真をやりつつ制作の日々。ワンルームを暗室にして生活していました。
公募展の鬼
というわけで、自分にはいわゆる修行時代(スタジオ勤務、弟子入り等)がないので、現状打破にはコンテストで賞を獲るしかないと思っていました。
現在であれば、SNSを使ったPRもやってたでしょうが※1、当時はミクシーくらいしかなく、まだまだ従来のマスメディアが強い時代。
とりあえず知名度あげねば!と思い、制作の日々。
私家版の写真集を作るのが趣味みたいになり、そして応募の繰り返し。
(※1.いまでもまともに有効活用できてないので、これは幻想w だけど当時は追い詰められてたからな、YouTubeは絶対やってたな。)
その後、応募すると小粒ながらも結果は出てきた。
しかし、受賞や入選は自信に繋がるが、仕事には繋がらなかった笑。
大きなコンテストで一等賞獲らないとインパクトにかけるのですねぇ。
(今だから思うけど、大きなコンテストで一等賞獲っても残ってるトッププレイヤーはごく少数だから厳しい!)
↓こちら1999年のMiO写真奨励賞の入選作品「This is ケンブツ。」
祭りの儀式を写さずに祭りを撮る、がコンセプト。
やや東京移転への関心
周りの人間がチラホラと関西から東京へ拠点を移す中、自分も東京への関心が向いていくのである。
東京への関心はあったが、拠点を移すということには二の足を踏んでいた。
イベント参加、展覧会鑑賞、ギャラリー巡り、公募展の搬入などで幾度となく東京に足を運んでおり、行きの新幹線から望む新橋の風景に「ああ、東京来たわ・・・」と高揚しつつ「イイなぁ」なんて思ってました。(反面、帰りの新幹線から京都タワーを見ると帰ってきた感が半端なかった)
上野、銀座、表参道、代官山がお気に入りで東京は大好きな街なのであった。
この仕事(写真の)やるならとりあえず東京、みたいなことは何人にも言われいた。
言ってる意味があんまりわからなくて、実力あればどこに居ようが一緒でしょ?なんて思ってた若かりし日笑。(無人島に飲食店出店して成功するみたいなもんですよ。)
その「とりあえず」ってのが気に食わなくて、なんとなく意地張ってた部分もあると思う。ビビリなので行かなくていい言い訳も欲しかったんだな、おそらく。
もう東京行く!
と、強く思ったことが一度だけあり、少し準備もしてました。そのくらいのタイミングでGEISAIの前身イベント芸術道場グランプリ(2001)に出展しました。このときは現代美術について全く知見がない状態。
東京都現代美術館で開催された芸術道場グランプリでは、特設ステージで村上隆氏と小山登美夫氏のトークショーが催されてました。このときはまだ小山さんのことは全く存じ上げておらず、ギャラリーの人なんだ、、、、くらいでした。
しかし、そのトークの内容が濃すぎて、当時の私には知らないことだらけ!しかも、アーティストとして食ってる人達がリアルに存在し、アートで経済回してる世界ってのがリアルタイムで存在するんだ!と、恥ずかしながらこのタイミングで知ったのです。
お二人の話を聞いた後、私は単純ですので、アーティストとしての活動を中心とするなら、芸術の街、世界の京都ってぴったりやん!と思います。
京都を拠点に関西で仕事をしながら作品の制作、発表は東京みたいな形態にすれば東京に行く必要はないやん、と、京都に残る判断をしました。
京都は生まれた街で(宇治だけど)大好きな街ですから、あんまり動きたくなかったというのもあります。
ここから、現代美術のことを調べるようになり、京都で開催される現代美術やアート系写真のワークショップには積極的に参加するようになりました。その中で、京都には京都のメリットがあるということも少しずつ知りました。ですが、知れば知るほど、活動すればするほど、私的にはやっぱり東京なのか・・・と思うことが増えてきたのです。
東京案件
京都で活動を継続しながらも、東京で働く友人の紹介等で、東京の撮影仕事もちょいちょい舞い込むようになります。
そして、2004年4月に発行されたBRUTUS No.545「外国人に学ぶ京都案内!?」いわゆる京都特集での撮影仕事がひとつの転機となる。
それまでも東京仕事はポツポツもらっていて、全く同じ内容の撮影しても、関西のギャラ事情とはクソほど開きがあるなと思っていたのだが、ほぼまるごとこの特集に関わることで、ギャラ以上に仕事の進め方や、フォトグラファーに対する扱いの違いに愕然とした。
この時の仕事が表紙、POP、車内吊り、駅貼りのポスターなど宣伝ツール一式になった。この仕事やってたら、いつかは表紙💢、と思ってたのだがまさかこんな形で現実のものになると思わなかった。
しかも憧れのBRUTUS!
実際、撮ってるときの手応えみたいなのはあったけど、たまたまとはいえ、この出来事はかなりでかい。
そして一発屋では終わらんぞ、と。
大きめの受賞
そして2004年、丸の内・丸ビルで開催された東京コンペというコンテストに応募する。とりあえず、ポートフォリオによる一次審査は通過したので、このあとは展示からの公開審査となる。このときの審査員の一人が私の写真人生を変えたひとり荒木経惟氏である。
その公開審査の様子も後ろからこっそり見に行った。とてもご機嫌に写真を見てくださっていた。
私の写真作品には興味を持っていただけたようで、見てもらうだけでもなんだか嬉しかったのを覚えている。
その夜、オープニングパーティは丸の内・丸ビルにて開催された。
応募者への事前告知はなしで受賞者が発表される場である。
私は東京に来て、華やかなパーティ会場に居るというだけで楽しくなっており、その高揚感で友人たちと飲んだくれていた。ヘラヘラしていると、遠くから私の名前を呼ぶ声が笑。まさかの受賞。オレお呼ばれ笑。
美術手帖賞。ステージへ。
ステージはとても高く感じた。いつも携帯してたコンパクトカメラでステージの上から会場の様子を撮影した。ヘキサーだったか、ビッグミニだったか。
受賞者発表の後、荒木さんにお礼を兼ねてお話を伺った。かなりご機嫌で酔っていらっしゃったが
「おお!アレか!グランプリに推したんだよォ!!オレが賞(荒木賞)やるとダメだろ?だから、美術手帖に託したんだよおオ」
みたいなことを仰ってくれた。
世界のアラーキーから直々のコメント。感動しかない。
シャンパングラスが斜めになるほど、酔っていらっしゃたので、どこまで本当なのかは知る由もないけど、そんな小さなことは私には関係ないのである。
荒木さんの写真世界とは、まるで違う世界観の私の写真に対して、そのようなコメントをいただき、さらなる自信となる。
賞もうれしかったが、何より荒木さんから直々にコメントいただけたことのほうがうれしかった。
このことがなかったら、今まで続いていたかどうかはわからん。
とはいえ、なんで「オレが賞やるとダメ」だったんだろう?
正直、荒木賞は欲しかったよ・・・笑。
ちなみにそのときの荒木賞は立体作品であった。
↑東京コンペの受賞作品
結局、作品を見てくれるいわゆる識者も東京が中心で、発信してくれるメディアも東京が中心。この2003年から2004年にかけてコンテストで入選、受賞はいくつか続き、BRUTUSの大きな仕事をクリアしたことにより、武器は揃った、東京行け、ってことだなと思い、2005年に東京に拠点を移すのでした。
そして東京。
ここからは、またスタートラインに立つことに。32歳で東京に来るなんて自分でも想像できなかった。来てみたら案外年齢は関係なかったです。若見えするせいか、普通に舐められてましたwww
先に上京していた友人たちからの紹介で食いつなぎ、大好きな秋葉原とも接点を持つことができた。(やっぱり人間関係大事ですねーーーー!本当に助けられました。)
今ではアイドルやアーティストの撮影が出来てたりする。
写真集は2冊刊行、ファースト写真集の堕落部屋は、Amazonのカテゴリー別で、売れ筋、欲しい物、ギフトランキングで1位になったせいか(本の売れ筋総合でも一桁台になっていた)、取材がポンポンやってきて、テレビに出演させてもらったりもした。おかげでランキング100位以内に一年近く鎮座しておりました。
現在もたまに取材の依頼が来たりします。
(これでやっと安泰だ!!!と思ったのですが、甘かった笑。)
二冊目の作画資料写真集・女子部屋もAmazonで1位になってたり、
その後、講談社出版文化賞写真賞最終選考作品としてもノミネートされました。
自分では思いもよらなかったことって起きるのですねぇ・・・。
↑帯を書いていただいた先生方のが名前が大きいのが特徴笑。先生方、その節はありがとうございました。めちゃ気に入ってます。
写真家になれました、、、
私の名前で写真集が出版されたことにより、自ら写真家と発信できるようになりました。
写真家という肩書のイメージは作家性、芸術性が高く、自称であってはならないと自分で決めてました。
故にそれまではフォトグラファーと名乗っていました。
当時お世話になった先輩フォトグラファーに相談した時も「フォトグラファーでええで」と教えてもらいました。商用も作品も両立できて、世界中で通用し違和感のない肩書でした。
現在の肩書はフォトグラファーか写真家です。とくに使い分けておりません。やってることはおそらくアート寄りです。(コマーシャルに対して)ただそれが第三者に伝わっているかはわかりません笑。
さてさて、つらつらと書いてみましたが、写真家としては割と幸せな方ではないでしょうか。
まだまだ無名で、まだまだ底辺ですけど!
また追記することもあるかもですが、ここら辺でしめておきます。
またの機会までごきげんよう。
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おまけ
何となくこんな感じの人
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