気遣いが必ずしも美徳ではないと学んだ話
昔から、「チキンライス」という曲が好きだ。
クリスマスシーズンに耳にする人が多いであろうこの曲を、私は季節に関係なく聴いている。
その中で、特に好きな歌詞が以下の部分だ。
子供の頃たまに家族で外食
いつも頼んでいたのはチキンライス
豪華なもの頼めば二度とつれてきては
もらえないような気がして
親に気をつかっていたあんな気持ち
今の子供に理解できるかな?
この歌詞は裕福ではない子供時代を過ごしていた松本人志さんの実話だという話は、多くの人が知っているかもしれない。
「こんなん今の子供には、分からんやろうな~」という松本さんの皮肉の込もった歌詞だ。
しかし私は、はじめてこの曲を聴いたときこの歌詞に共感を覚えた。
「気遣い」を絶対的な魔法だと過信した子供時代
私が他人への気遣いで褒められた一番古い記憶は、幼稚園児の頃の出来事だ。
ある日、幼稚園のおともだちのお家にお呼ばれした。
出してもらったおやつの中に、私の苦手なお菓子(ラムネ菓子だった気がする)があった。
でも、わざわざ用意してくれたお菓子を「苦手」と言う勇気は私にはなかった。
そこで私は「このお菓子、弟が好きなお菓子だった気がする。食べさせてあげたいから、持って帰っていいですか?」と、おともだちのお母さんに聞いた。
おともだちのお母さんは「弟妹思いのお姉ちゃんの鏡」な私の行動に、えらく感動したそうだ。
後からおともだちのお母さんにその話をされたらしく、母から褒められた。
もちろん苦手なお菓子で食べられないのを、おともだちのお母さんに悟られたくなかったために口をついて出た言葉なのだが、私は「自分の言葉が人の気持ちを害することなく済んだ」ことに安堵した。
さらに私の行動によって、親の教育が良いと褒められることになる。
自分の行動で親が喜んでくれるのは気分が良かった。
チキンライスという曲が発売された2004年当時、小学生だった私は歌詞を知って「私のための曲だ」と思った。
この曲と幼稚園時代の出来事を思い返して、親だけでなくさまざまな人に気をつかって生きていくのが美徳なのだと子供心ながらに感じていた。
だからこそ人が嫌がりそうな仕事は自分が率先して引き受けたし、輪に入れない子がいたら仲間外れにせず「一緒に遊ぼう」と声掛けをした。
まわりの人が私のことを好きでいてくれてる実感が持てる「気遣い」は素晴らしい魔法だと思っていた。
しかし私の曲がった「気遣い」の魔法が、必ずしも他人の気持ちを害さずに済むわけではないと当時の私は知らなかった。
自分のための「気遣い」は他人のためにはならない
そうやって気遣いを自分の中のモットーにして生きてきた大学時代、居酒屋のアルバイト先の店長に「詩織は愛嬌があるけれど、八方美人なところがあるから社会に出て苦労するだろうな~」と言われたことがある。
当時の私は人からアルバイト先を紹介されると断れず、1日に複数のアルバイト先を「はしご」して働いていた。
多少八方美人な部分があったのは自覚しているが、それでつらいと感じたことはなかった。
しかし店長からしたら、目に余る行動があったのかもしれない。
案の定、社会人になった私は自分で自分を苦しめている状態にある。
(※他にもダメな要因はたくさんあるが、今回はこのnoteの主題にのみ着目することにする)
例)
・クライアント対応時には、クライアントの要望に対してNOが言えずに無理な社内調整をしようとする
・社内交渉が必要な事柄は「忙しそうな相手を急かすのが申し訳ない」と感じて、きちんと依頼期日を伝えられないため、結局まわりの人を困らせることになる
私の所属する部署では、隔週で1on1の時間を取ってもらい上司と話をしている。
最近の1on1で、上記のように業務上うまくいかない出来事の話をした。
上司は、私の事象を図式化して「田上がどういった思考から行動をしているか」分析するのが非常に上手だ。
私自身がどういう思考から奇行に及んでしまったのか分からない事柄も、図式化によって解明してもらっている。
その中で、他人に気をつかったつもりの私のふるまいが「自分が嫌な思いをしないための予防線」を張っているだけであると気付かされた。
クライアントにNOを言えず社内調整をしようとすると、クライアントの要望は満たせるかもしれないが、社内の人に負荷をかけることになる。
さらにクライアントの要望がエスカレートすると、社内調整では応えられなくなり結局クライアントのためにもならない。
社内交渉については私が期限を切らない依頼をすることで、依頼された人は仕事の優先度が分からずに正しい業務遂行ができない。
結果としてその人が知らないうちに、業務を止めている状態をつくってしまうことになりかねない。
このように他人を(直接)傷つけることがないように気遣っているつもりが、結局は自分が嫌な思いをしないためのエゴによって、仕事をやりにくくしていた上に他人の邪魔をしてしまっていた。
なんだか自分がひどく嫌な奴だなあと思った。
仕事上で他人のための「気遣い」は相手の仕事を進めやすくすること
私のこれまでの気遣いは「相手はこういう人で、こういうことをしたらこう感じるかもしれないからこうしよう」という推測が多く、的外れなことが多い。
というかそこまで深く考えると、勝手な思い込みがほとんどなので、気心の知れた関係の人でもない限りは的外れの気遣いばかりだった気がする。
そんな中で「人に当たりくじを引かせるために自分が外れくじを引けばいいや」という考えのもと、自分が摩耗していることも多かった。
これがプライベートならば自分が損するだけで済むが、仕事となると自分のふるまいによって多くの人に迷惑をかけることになってしまう。
これではいけないと思っていくつかの本を読んだ中で、仕事上で求められる正しい気遣いとは、もっと単純なものなのではないか?と気付いた。
それが以下の2つだ。
①相手の目的を認識する
②目的が遂行しやすいように手伝う
たとえばクライアントが無理な要望を出してきたら、その目的の意図を考えて「その対応はできないが、こういった形ならば目的を達成できるのでは?」という提案をする。
期日の迫った社内交渉を忙しそうな人に依頼する場合、「これをいつまでに終わらせたいのですが、こういう形だと早く進められますかね?」と協力体制をつくった状態で進める。
とはいえ言うは易し、行うは難し。
正しい気遣いが当たり前にできている社会人の人はすごいな…と心から尊敬する。
それでもやっぱりチキンライスが好き
私が子供の頃から感じていたチキンライスという曲への共感は、今となってはただの自分のエゴだったのかもしれない。
それでも、私は他人への「気遣い」が素晴らしいと思えるチキンライスという曲が大好きだ。
今は一刻も早く、正しい気遣いができるようになってカラオケで堂々とチキンライスを歌えるような大人になりたい。