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My pleasure ②

推敲前の文章。
こちらがより一層私の気持ちを素直にありのまま表現しているので、記録として保存しておきたい。

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あれから8年。

2016年7月26日、相模原で起きた事件のことを、私は片時も忘れたことがない。あれからずっと、べっとりと心に塗りたくられた感情に、私は今でも上手く名づけすることができずにいる。

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当時私は神奈川県内に住んでいて、数週間後に施設へ赴いた。380円の竜胆を片手に、電車とバスを乗り継いで行った。とても遠かったし、とても暑かった。

堅くて冷たい塀に囲まれたその施設には、パトカーが何台も止まっていて、当然敷地内に入ることなどできるはずなかった。白テントに積み重なった花束の上に竜胆を乗せると、私はそのまま帰りのバス停に向かった。ある放送局のレポーターに声をかけられたが、丁重にお断りした。バスを待っている間、車椅子に乗った男性が彼の取材を受けているのをぼんやりと眺めていた。

その時、日傘を差した年配の女性に「暑いですね」と声をかけられた。「暑いですね」と返した。ここに来たの?と聞かれたので、ここに来ました、と答えた。「わたしらは何も言えない。ここで働いているわたしらはね、今は、天気の話しかできないのよ」とその女性は乾いた声で笑った。そしてもう一度、「暑いですね」と言った。

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それから私は、この事件についてある程度調べた。優生思想だとか、サバルタン研究だとかの勉強をした。研究者にメールを送り、その方と遺族を含めた団体の会議に出席した。知的障害の兄が生活する施設職員にインタビューした。それらの行動がローカル新聞に掲載されたこともある。

けれど、私はすぐに嫌になってしまった。大学教授や新聞記者が吐き出す文章は、確かにどこまでも正しく聞こえた。テレビのドキュメンタリーはどこまでも綺麗で美しかった。でも、私には、天気の話しかできない、あの女性の疲れた笑い顔が頭を離れなかった。「あの事件について知ろうとしたら、目の前にいる彼らを見ることができない。あなたはなぜ事件を知りたがるの?」兄の施設職員の、少し責めているような声が忘れられなかった。

どこにも属せない感情の行き場がなくなってしまい、私は事件のことも兄のことも直視できずにいる。

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たとえば、「すべての人間にはひととして生きる権利がある」と私は信じている。なぜなら1948年に「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という世界人権宣言が採択されたことも、その約30年後に日本がそれを批准したことも知っているからだ。私たちには人権がある。それはとても正しい。

そして、「障がいは個性だ」とか「障がい者も才能がある」とかいう意見も理解はできる。ヘラルボニーさんをはじめとする会社のブランド力には心からリスペクトしているし、私が普段使っている小さなトートバッグの絵柄は兄の友人が描いた。とても気に入っている。

また、優生思想が引き起こしたナチスの悪行について擁護すべきだとはどうしても思えない。反対に、脳性麻痺患者による障害者の権利運動(通称:青い芝の会)には一定の意義があったと思う。

「にもかかわらず」、私は、そちら側に立ち続けることができない。

私の髪の毛をむんずと掴み掛かってきたり、裸足のままスーパーマーケットに脱走して未会計のものを食べ散らかしたり、車の運転をする母や力の弱い祖母を青あざ血だらけにさせたりする兄を思い出すと、それらの正しさや綺麗さとは真逆の岸に私はいる。お兄ちゃんなんかいなくなっちゃえば良いのに、なんて口が裂けても言えなかったから、代わりに夢の中のもうひとりの私は兄の葬式を挙げていた。現実では、私はいつだってどこでだって兄が大好きな可愛い妹だ。実際大好きだ。兄は大切な存在だ。それと同時に、確かに傷ついていたし、恐怖に怯えていた。

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世間は、わざわざ優生思想だと名乗らなくても、ひととひとを選別したり、生きる価値に天秤をかけたり、排除したりすることをやめようとしない。昨今の経済的不況や不安定な情勢の下、確実に着実に活発化しているように感じる。私ひとりではないと思う。

知的障害者なんて生きる価値がない、そう思う人はきっと、少なくない。お国の力を借りてまでして、彼らがこの世界の酸素を奪い続けていることに、忌避や嫌悪の感情を隠そうとしない人がいることも私は知っている。植松はひとりじゃない。

それを真っ向から否定し、説き伏せる力を、今の私は持ち合わせていない。むしろその論に乗り、じわじわと身体の心が浸されていくこともある。

いつだって、結局私の結論はおぼつかない。名づけできない感情にふらふらしながら、倒れながら、溺れながら、それでも私はここにいる。確かに私はここにいる。

誰も死ななくて良い、死にたいなんて、死ねなんて思わなくていい社会を、私はつくりたい。

私はここにいて良いと、お兄ちゃんは生きていて良いと、あなたにはあなたの居場所があると、胸を張って、私は私の人生を、歩んでいきたい。

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