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【中編】この痕が消えるまで(10180文字)

【SS】あの痕が消えるまでのサイドストーリーです。

ひええ長くなっちゃいました🤣

 数か月前、「美月! 聞いて!」とキミコから彼氏ができたことを打ち明けられたとき、私は哀しかった。この感情はそんな一言で表せられるものではないけれど、強いて言えばその時の感情に一番近いように思われた。
 キミコはとにかく美しい。その可憐な外見にそぐわないあけっぴろげな性格も、固定観念に囚われない自由さも、どれもが自分とは正反対だ。人は自分にないものを持つ人に惹かれる。私がキミコにどうしようもなく惹かれたのは必然だったのだろう。
 数分前、大好きな男の子の元へ走り去っていったキミコの後ろ姿が頭をよぎる。泣くな自分。感傷に浸りたくなんてないのに、私の脳ミソは勝手にキミコと出会ったあの日の映像を再生する。もう10年も前になるのか。

 入学初日、順番に自己紹介をしていく瞬間から生徒同士の格付けは始まっている。正確に言えばその前から。
 中学を卒業するとすぐ、私たちは競うように高校生専用SNS『ハイスクールデイズ』、通称『ハイデー』をインストールした。春から入学予定の高校を入力すれば、将来のクラスメイト候補と仲良くなることが出来る。
 高校からスマホデビューとなる私は、中学校の卒業式のあと、両親に頼みこんでそのまま携帯ショップに赴いた。同級生の半数はすでにスマホを持っている。彼らはきっと今この瞬間にでもハイデーをインストールして、仲良くなって、高校生活を過ごすグループ作りに勤しんでいるのだ。私はその流れに乗り遅れることが何よりも怖かった。
 初めて持つスマホの設定に手こずり、どうにかハイデーをインストールできたのはその日の夜だった。氏名や生年月日などを躊躇なく入力していく。
「写真かあ」
 初めて手が止まった。手元の画面をじっと見つめて考え込む。インターネットに個人情報を載せることへの躊躇ではない。外見をひと目に晒すことへの躊躇だった。
 私は不細工だった。
 小さな目に平らな鼻に薄い唇。おまけに太っていた。時代が違えば美人と言われる可能性はなきにしもあらずだが、現代において私は紛れもなく醜い女だった。
 悩んだ末、先週母親と行ったカフェで撮ってもらった渾身の一枚を登録した。大量のチョコシロップと、うさぎを型取ったチョコレートがトッピングされたイチゴスムージーに軽く口をつけている写真。この愛らしい飲み物がたるんだ顎のラインをうまく隠してくれていたし、窓際の席で光の入り方が良かったのか美白に見える。伏し目をしていたおかげで小さな目もごまかせている。実物に比べるとかなりマシに映っていたのは確かだ。
 写真を撮った母は「美月可愛い~!」と満面の笑みで写真を見せてきた。本気でそう思っているようにも見受けられたし、自分と似た顔をしている母に「いやブスじゃん」と伝えることは躊躇われた。同じ不細工でも母は父に選ばれ、愛されている不細工だった。私と母の間には雲泥の差があった。
 自分の外見にそぐわない名前を付けた親を恨んだこともある。でも、それが親の愛だということは高校生の自分には十分に分かった。だからこそ、たまに言いようのない遣る瀬なさを感じた。
(どれだけ綺麗事を並べたって結局、美しさは正義だ。今も、きっとこの先も)
 教室という小さな世界で生き抜く術は15年の人生の中で身につけていた。醜さを逆手に取ってお笑いキャラを確立するようなことはできない。ならば目立たない女子のグループに所属し「無害な奴ら」の一員として教室の片隅で生きていく。これが私の望むものだった。
 春から入学する柳が丘高校の名前をハイデーに入力すると、「クラスメイトになるかも?」という表示とともにずらりと生徒の一覧が表示された。その時点ですでに100人弱のプロフィールが登録されていた。その年の入学生は約300人。中学校を卒業したその日のうちに、3分の1もの人間が高校生活の土台作りに励んでいる。なんだか薄ら寒かった。これが正解なのだと自分に言い聞かせるも、卒業式の僅かな感傷は消え失せ、元から大して持ち合わせていなかった新生活への期待が萎れていくのを感じた。
 ハイデーでは友達になりたい生徒に「フレンド申請」をする。申請を受けた側が「フレンド申請」を返して初めてふたりは【友達】になれる。
 100人の生徒は「フレンド」の数が多い生徒から順番に並べられている。まだ「フレンド」がいない美月のアカウントは一番下に表示されており、柳が丘高校における序列を如実に表しているように思えた。
 一番上に表示されている「上原 海斗」のプロフィールを開いてみる。中学では野球部だったのだろう。ピッチで構えている写真が1枚目。友人と肩を組んで笑う写真が2枚目。綺麗な顔をしている。部活を引退したあと伸ばしたであろう髪はワックスで整えられていた。教室で撮られた集合写真の前方でひとり寝そべっているのが3枚目。「気軽に絡んでください」というシンプルなプロフィール文。私が苦手な、典型的なスクールカースト上位者だった。
 海斗のプロフィールをぼんやりと眺めていると、スマホに通知が入った。
【上原 海斗さんからフレンド申請が届きました】
 胸が高鳴る。
(写真で判断する人じゃないんだ)
 ついさっきまで苦手だと思っていた海斗の良いところを探し始めている自分の現金さには嫌気がさしたが、無意識に頬を緩ませながらフレンド申請を送り返した。
 こうして私たちは【友達】となった。

 入学式当日の朝、クラス分けの掲示に生徒が群がっていた。A~Hまであるクラスのうち、私はB組だった。どうか平和なクラスでありますように。多くは望まないから、穏やかな毎日が送れますように。そんな思いを胸に、背伸びをしてB組の掲示を覗いた。
 一番上に「上原 海斗」の文字が見えた。心臓がバクバクと嫌な音を立てる。権力者がいるクラスは大抵ロクな事にならない。その周囲に彼の影響力に便乗したい生徒が集まる。彼らは大抵人を見下し、時には迫害することで自分たちの優位性を示そうとする。
 いや、上原海斗はそんな人じゃない。大丈夫。私たちは【友達】なんだから。
 B組の教室に入ると、すでにいくつかのグループが出来ていた。まだ担任の先生が来ていない教卓前に集まった女子の集団から「写真撮ろ! 皆でハイデーのプロフに追加しよーよ」という声が聞こえた。同じクラスになったメンバーのうち、すでにハイデーで交流があった人たちが集まっているのだろう。
 窓際には、数人の男子生徒が肩を並べている。教室全体が目に入る場所で、他の生徒を値踏みする位置。入学初日にそこを陣取っている彼らこそ、このクラスの「王様」になると容易に予想がついた。その真ん中にはやはり、海斗がいた。
 海斗の髪はハイデーの写真で見た黒髪ではなく明るめの茶色に染められていた。校則では確かヘアカラーは禁止されていたが、そんなものどうだっていいのだろう。ルールを破ることを全く気にしない。彼はやはり危険人物かもしれない、と考えを改めたそのとき。
 海斗の右隣に立つ、彼より頭一つ分背が低い男子生徒がこちらを見て「おい、来たぜ」と言った。本人は声を潜めているつもりかもしれないが、私の耳には嫌になるほどはっきりと届く。隣の海斗が笑った。海斗の左隣の男子生徒も海斗に視線を送りながら笑った。
――ああ、やっぱりか。
 一瞬で、全身が鉛のように重くなった。呼吸がしにくい。針金か何かで胸をきつく締めあげられているようだ。あの種類の笑い方はこれまで何度も目にしてきた。獲物を見つけたときの笑い。相手をいかにいたぶってやろうかと思案するときの、無邪気で残酷な笑い。
 こういった雰囲気をクラスメイトは敏感に察知する。弱者は自分が獲物にならなくてよかった内心安堵し、強者は面白いショーが見られそうだと喜ぶ。
 私の平穏な高校生活は失われたことを静かに悟った。
 自席に座り、机に置かれていた新入生のしおりに目を通す。目線はしおりの表面をつるつると滑るだけで、今も自分を揶揄する会話がどこかで交わされているのではないかと気が気でない。手元でハイデーの画面を開いてみる。思った通りだ。海斗やその他数人との「フレンド」関係は解除されており、残っているのは私がターゲットだという状況に気づいていない数名だけだ。
 絶望のため息をひとつ零したとき、右横の座席の椅子が引かれる音が耳に入った。ちらりと右側に目線を遣ると、ちょうど座ろうとしていた女生徒と目が合った。一目見ただけで分かる。このクラスで、いやこの学年で一番美しい女子――それがキミコだった。
「となりだね。あたし麻生紀美子。なんかお堅い名前でしょ。可愛くないからカタカナでキミコって呼んでよ」
「ふふ、何それ。私、は山岸美月です。よろしくね」
 カタカナでも漢字でも呼び方は同じなのに大真面目にそう言うキミコが面白くて、一瞬自分が置かれている状況を忘れかけたが、すぐに現実に引き戻される。振り返らなくても、海斗たちが、クラスの誰もが突然現れた絶世の美少女、キミコを見ているのが分かる。
 ここでキミコと仲良くなれたら、私の立ち位置はがらりと変わるかもしれない。少なくとも、キミコに嫌われたくない海斗たちは表立って私に危害を加えたりはしないはずだ。そんな邪な考えが頭をよぎった。
「ね、キミコちゃん。入学テストの勉強した?」
「キミコでいーよ。いや、まったく。やばい。美月はちゃんとやってそうだなー」
 キミコの距離の詰め方が自分のそれとは違う。やはりあちら側の世界の人だと思いつつも会話を続けようと口を開いたそのとき、背後から海斗の声が響いた。
「ね~麻生さん、で合ってる? 俺たちも混ぜてよ」
 私に対するけん制とキミコへの純粋な好意が入り混じった声色だった。ニヤニヤと笑う取り巻きを引き連れて、海斗が私たちの席に近づいてくる。
「なにー? 今美月と喋ってんだけど」
「だから俺たちも一緒に話したいなって思って。美月ちゃんもいいでしょ?」
 中学校で男子との交流がほとんどなかった私にとって、男子からちゃん付けで呼ばれることは少女漫画の世界のようで、ひそかな憧れを抱いていた。しかし悪意を伴ったとき、この呼びかけはこんなにもおぞましく聞こえるものなのか。下を向いたまま返事をすることもできない私を放って海斗が続ける。
「麻生さん、ハイデーやってる? 俺ぜってえ見逃すはずないと思うんだよなー」
「ハイデー? なんかメンドーそうだしやってないよ」
「うそ、まじ?」
 これには私も驚きだった。今どきの高校生でハイデーをやっていない生徒がいるのかと。しかも、こんなクラスのトップに立ちそうな美少女が。
「てか、もういい? 美月、まだ先生来るまで時間あるしちょっとその辺探検してこようよ」
 海斗たちが予想外の展開にあっけにとられているうちに、美月は立ち上がって廊下の方向に歩いて行ってしまった。クラスメイトが皆私たちを見ている。私はあわてて後を追う。この少女に気に入られたのは他でもない私なのだという優越感を少しだけ抱きながら。
「キミコ、出てきちゃってよかったの?」
「だってあいつらなんか感じ悪いじゃん? あたしあの手の笑い方するひと、きらいなの」
 キミコは私が思っているよりずっと周りを見ている子だった。そして、自分に向けられたわけではない悪意を感じ取って、嫌なモノとして分類することが出来る。キミコは美しいだけでなく強い。彼女の強さは一体どこからやってくるのだろう。当時の私はいつも不思議に思っていた。

 入学してから三か月が経ち、通学時に目に入る光景はすっかり初夏の色へと姿を変えていた。青い空。白い雲。通学路を彩る新緑の木々。それらを美しいと感じられるのは、他でもないキミコのおかげだった。
 入学初日に話したあの時から、私とキミコは学校でのほとんどの時間を一緒に過ごすようになっていた。休み時間は空き教室でこっそりと、キミコのお気に入りのYoutuber「ララちゃん」の動画を観て過ごすことが多かった。「ララちゃん」は現役女子大生のYoutuberで、彼女のメイク動画や洋服の着回し動画は、私には遠い世界に思える。けれど、キミコが「ララちゃん可愛いよー!」と嬉しそうに動画を観ている横顔を観るのは好きだ。ララちゃんは多彩で、ギターの弾き語りもする。歌う曲は主に今はやりのJ-popのカバー。私は音楽にもあまり興味はなかったけれど、彼女の歌声は透き通っていて綺麗だ。顔も、声も、センスもスタイルもいい。どれかひとつでも私にくれたらいいのになあ、なんて思いながら観ていたのは内緒だ。
 キミコは弁当を持ってこないので、昼休みには学食に行って一緒にお昼ごはんを食べた。彼女は中学時代もグループでつるむタイプではなかったようだが、何故私を一緒に過ごす相手に選んでくれたのかは分からなかった。
 とびきり綺麗なキミコと、とびきり不細工な私。ちぐはぐなふたつのピースがパチッとはまっていることがクラスメイトにとっては不思議らしく、彼らは私たちの扱い方に戸惑っているように思えた。でも、その戸惑いがクラスメイトと私たちの間に適度な距離感を生んでくれ、結果的に、私が望んでいた平穏な学園生活を手に入れられたのだった。海斗たちは相変わらずで、裏では私を笑いものにして面白がっているようだったが、キミコのおかげか表立って私に危害を加えてくることはなかった。

 ある日、「今度うちに泊まりにこない?」と誘われて、キミコの家にお邪魔したことがあった。母親に用意してもらったお菓子を手土産にキミコの家に足を踏み入れたとき、自分の家の雰囲気との違いに愕然とした。
 キミコの家庭が複雑なのは何となく分かっていたし、母親と二人暮らしだということも聞いていた。世の中には色んな家族の形があることを頭では分かっていた。でも、夜になっても親が帰ってこない独りの家というものがこんなにも静かだということを、私はそのとき初めて知った。
 キミコが冷蔵庫から麦茶を取り出して、不揃いのガラスコップに注いでくれた。注ぎ口の内側には茶渋がびっしりと付いていて、こすっても簡単には落ちそうにない。うちのお母さんが見たらぎゃっと悲鳴を上げそうな汚れ方だった。
「何も無いし、狭くてごめんねー!」
 眉毛をハの字にして、でも口角はくいっとあげたまま、キミコが謝った。何も無いわけではない。1LDKの住居には、母親のものと見られるバッグや、洋服や、化粧品が散乱していた。美月をもてなせるようなものという意味では、たしかに何も無かった。
「ううん、キミコと一緒にいられるだけで嬉しい」
 本心からの言葉だった。その頃には自分でも恥ずかしいほど、キミコという人間に惹かれていた。人からの目なんて気にしないで、好きな人を好きだと言う。嫌いな人を嫌いだと言う。そんなことが出来る人間になりたかった。奔放な振る舞いをしても迫害されない美しさを持って生まれたキミコだからそうなれたのだ、と言われればその通りかもしれない。だけど、そんなキミコだってすべてを持っているわけではないと、物が散乱した部屋を見渡しながら思う。それでも。どんな環境でも、どんな顔に生まれても、きっとキミコの輝きは変わらない。
「キミコのお母さん、今夜は帰ってこないんだよね?」
「うん。多分彼氏のとこに行ってる」
「そうなんだ......」
 うまく言葉を返せない私に、キミコはぎこちなく笑いかけた。
「黙んないでよ。あたしこれでもママには感謝してるんだ。生きてくのに必要な最低限のお金は用意してくれるし、別に仲が悪いわけでもないしね。周りにはひどい母親だね、可哀そうだねって言われることもあるけど。なんであたしが可哀そうかどうかを他のひとが決めちゃうのかな」
 そう言うキミコは自分の言葉を必死で自分に言い聞かせているように見えて、私はそんなキミコのことをつい、可哀そうだと思ってしまった。
「うん、そりゃ自分の親のこと、他人にどうこう言われたくないよね」
「ママは勉強とかは何にも教えてくれないけど、教えてくれたこともあるの」
「なに?」
――綺麗に生んじゃってごめんね。あんたはあたしに似ちゃったから、きっと男で苦労するね。
 キミコが小さく呟いた。キミコのお母さんがそう言ったのだろうか。
「ママは、もし男の人に襲われそうになったら、目をつぶって、力を抜いて、5分間だけ我慢しなさいって言ったの。それがあたし自身を守る方法だって。あんたは綺麗だから、じっとしていればすぐに終わる。終わったら、すぐにママに言うのよ。魔法の薬をあげるから、って」
「魔法の薬?」
「緊急避妊薬。赤ちゃんが出来ないようにする薬」
 キミコが何の躊躇もなく言った。なんだかキミコの方を見ることが出来なくて、麦茶が入ったグラスをじっと見つめた。グラスの周りには結露した水が幾筋も流れていた。泣いている、と思った。
 キンキュウヒニンヤク。自分の人生からあまりにも縁遠い言葉だった。キミコはそれを飲んだことがあるの? その男の人とキミコのお母さんは本当に無関係なの? なんて到底聞けなくてまた黙る。
「すごくない? あんな小さな塊一粒で、あたしたちの身体は簡単に操作できちゃうんだよ。心は......」
――心は、どうしようもないけれど?
「キミコは......エッチしたこと、あるの?」
「そう見える?」
 恥ずかしがるわけでもなく、また気分を害した様子もなくキミコが聞き返してきた。今日のキミコは少しだけ怖い。知らないことを教えてくれる先生やお母さんは私を安心させてくれるのに、私が知らないことを多分知っているキミコは私を不安にさせた。同じ15年間で私とキミコが戦ってきたものは全く違うような気がした。キミコの敵は15歳の少女の相手として相応しいものなんだろうか。
「だってキミコ大人っぽいから」
「したことあるよ。引いた?」
「引かない。びっくりはしたけど」
「美月は? 興味あるの? そういうこと」
「興味はちょっとだけある。それ以上に怖いかな」
「あたしだって怖かったよ。……でも美月となら怖くないかも」
「魔法の薬もいらないしね」
「言うじゃん」
 顔を見合わせて笑う。一緒にいたずらを企んでいる気分だった。なんでもいい。キミコに笑ってほしかった。
「ね、お風呂一緒に入ろ。あわあわになる入浴剤あるんだ」
 キミコは私の手を引いてバスルームに誘導した。蛇口から流れるお湯が水面にぶつかるたび、ひとつまたひとつと泡が立っていく。泡をお互いの頬につけ合ったり、キミコにマッサージをしてあげたりした。私は不細工でも虐められてもいなくて、キミコの初体験は大好きな人とだった。ふわふわの白いお湯に包まれながら、そうだったらいいのにと考えていた。その世界線の私たちなら多分、最強のふたりになれたのに。
 身体に熱が溜まり頭がくらくらし始めたが、幸せな時間を終わらせたくなくて我慢していると、案の定湯あたりしてしまった。目の前に靄がかかって上手く歩くことが出来ない。
「ちょっと美月、大丈夫?」
 キミコに顔を覗かれてドキっとしてしまう。これがもはや女友達に対する感情ではないことは恋愛経験のなかった私にも流石に分かった。脱衣所の壁に全裸でもたれかかっている姿が全身鏡に映っていて、急に恥ずかしくなった。バスタオルで身体を隠し、ぼんやりした頭でキミコに問いかけた。
「なんでキミコは私なんかと一緒にいてくれるの?」
「私なんかって言い方やめなよ。楽しいから一緒にいるんじゃん」
「ううん、今日で分かった。多分ね。私が不細工だからだと思う。キミコは綺麗なものが、憎いんじゃないかな」
「なに変なこと言ってんの。頭回ってないでしょ。いいからお水飲んで休みな」
 キミコがコップに入れた水を差し出してくる。それを受け取らないでしゃべり続けた。
「それでもね、それでもキミコは綺麗なの。変えられないの。いい人も悪い人も惹きつけちゃうの。私は正直キミコが羨ましいよ。でもね、今なら不細工でもよかったって言える。だってキミコの隣にいられるんだもん」
 私の言うことを黙って聞いていたキミコがそのときの一瞬だけ、本気で怒ったように見えた。キミコは口を開きかけたけど、結局何も言わずに黙ってしまった。気まずい沈黙のあと「美月は不細工じゃないよ」とだけ呟いた。

 あのとき本当は何を言いたかったの? とずっと後になって聞いてみたことがある。キミコは「自分でも分からないや」と笑った。
「美月の言ってることは的外れもいいとこでムカついたから、反論しようと思ったの。けど、たしかにあたしは自分が嫌いだったし100%否定もできなくて。あたし馬鹿だからさ。上手く言葉にできないともういいやって諦めちゃうんだ」
 言葉にしないで諦めてしまう。たしかにそうだったのかもしれない。でも今のキミコは違う。ショータローくんのもとに向かったキミコは、彼女なりの精一杯を言葉にして伝えようとする。彼に響かないはずがない。悔しいけれど、私が10年かかっても変えられなかった――きっと変わってほしくなかった――キミコを変えたのはショータローくんなのだ。ありのままを受け入れることと、変化を妨げること。もしかしたら、私はこの2つをごちゃまぜにしていたのかもしれない。
 結局、キミコがキスマークを付けられた「後輩」が男なのか女なのかを聞くことができなかった。キミコからショータローくんと付き合うことになったと聞いたとき、私はたしかに哀しかった。だけど同じくらい安堵した。私がキミコに選ばれないのは女であるからなのだという最後の砦が崩されずに済んだから。
 キミコが残していったホッピーのグラスの縁にはくっきりと赤色が残っている。キミコがつけた口紅の痕。そこに口をつけるか否か。そんなことをバカ真面目に考えている自分があまりにも惨めで滑稽だ。今も昔もキミコは美しい。そんな美しいキミコを汚しているのは私じゃないか。

 キミコの家に泊りに行って、私がのぼせて、少しだけ気まずい雰囲気になった後のこと。私たちは、何故かキミコのお母さんのメイク道具をこっそり拝借してメイクの練習をすることにしたのだった。
 キミコは「美月は不細工じゃないし」と、不機嫌を隠さない声色で呟きつつ散らかった部屋を物色していた。めぼしいメイク道具を見つけ終えると、スマホから流れるララちゃんのメイク動画を参考にしながら、ああでもないこうでもないと塗っては落としてを繰り返した。
「美月の顔はメイク映えすると思う。もし変わりたいなら手伝うよ。私はそのままの美月でもいいと思うけど」とキミコは言った。
 変われるならば変わりたい。キミコの横に並んでも違和感のない存在でありたい。はなから無駄な努力だと諦めていた部分があったけれど、キミコが味方なら何者にだってなれる気がした。
 メイクを練習し、髪形や服装を工夫し、少しずつダイエットに励んだ。驚くべきことに、高校卒業の年には私の容姿は中の上くらいになっていた。その頃にはとっくにハイデーをアンインストールしていたが、当時の自分だったら100人くらいとは【フレンド】になれていたかもしれない。その人たちが本当に友達と呼べる存在になったのかは定かではないけれど、もはやどうでもいいことだった。あんなにも気になっていた周りからの目は私を脅かすものではなくなっていた。
 キミコと一緒にメイク道具を選びに行ったこともあった。私が背伸びをして欲しがった血のように赤い口紅をキミコは嫌がった。そういえば、キミコのお母さんの口紅はどれも真っ赤だった。真っ赤な口紅はキミコにとって、大人になりきれない大人の象徴だったのかもしれない。深読みかもしれないけれど今更になってそう思う。
「今は色付きリップでいいんじゃん? うちらまだ若いんだし。その色が似合うようになるときがいつかくるよ。そしたらお揃いにしよ!」
 真っ赤な口紅の代わりにニベアのリップを指さしながらキミコが言った。この先もキミコは付き合いを続けてくれるつもりなのだと、とにかく嬉しかったのを覚えている。

 ――そして今、真っ赤な口紅が似合うくらいには大人になれたはずなのに。一緒に大人になることが出来ただけでも幸せと思うべきなのに。親友の幸せを心から願える人間でありたいのに。
 グラスの縁に親指を沿わせる。まだ冷たさが残るグラスの、赤色の部分だけに温かみを感じる。この気持ちが明るみに出る前に消さなければ。
 私の気持ちを知ったキミコはきっと泣きそうな顔をして「ありがとう。でもごめんね」と言ってくれる。私が女だからなんて理由ではなく、ただショータローくんが好きだから、という眩しい理由を口にする。
 消さなければ。これ以上苦しむ前に。キミコを苦しめてしまう前に。そう思うのに、この気持ちを上手く消化する術が分からない。本当だ。心はどうしたってままならないね。心も操作できる魔法の薬があればいいのに。
 居酒屋に残された私は、グラスの縁でいつまでも動かない親指を見つめることしかできない。
 

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