【SS】明日世界が終わるなら(1494文字)
「明日、巨大隕石が落下し、地球は滅びます」というニュースが流れたとき、英雄は怒りを覚えた。帰宅ラッシュで込み合う車内でスマホに目を落とす人々のどよめきは英雄をさらに苛立たせた。
(馬鹿馬鹿しい。NHKも地に落ちたな。こいつらもこんなフェイクニュースをなんで信じられるんだ? 明日は大事な会議があるし、さっさと帰って寝たいってのに)
英雄が帰宅したとき、明かりが灯っているはずのリビングは真っ暗だった。
「帰ったぞ? ……いないのか?」
電気をつける。リビングテーブルに便箋が一枚置かれているのが目に入った。
【最後の日は愛する人と過ごします。】
英雄の妻はラップがかけられた夕食をメモの横に残して出て行った。ひとりで食べる最後の晩餐を用意しておくのは妻の慈悲だろうか。家庭を顧みてこなかった英雄への復讐のようにも思える。
ラップを外す。レンジで温めなおす。自分の動作ひとつひとつがスローモーションのように感じられた。ビーフシチューを掻き込む。英雄の好物だ。家庭では無口な英雄は、ビーフシチューを食べるときだけボソリと「うまい」と呟く。そのときに妻がどんな顔をしていたのかを思い出すことはできなかった。
「……うまい」
気づかぬうちに英雄は泣いていた。妻が出て行った悲しみなのか、過去の己の行いへの後悔なのか、浮気をしていた妻への怒りなのか、自分でもよく分からなかった。
夕食を食べ終わった英雄はすぐに、泥のように眠った。
***
「明日、巨大隕石が落下し、地球は滅びます」というニュースが流れた翌朝も、驚くことに英雄の部署の半数は出社していた。瞼が腫れあがった英雄もまた、出社していた。
延々と流れる報道と青空にギラギラと煌めく橙色の塊を見て、隕石の落下をフェイクだと言う人はいなくなっていた。
オフィスには異様な高揚感が漂っている。家にいてもすることが無いから出社した人。ただ責任感から出社した人。まだ地球が滅びることに半信半疑で会社を休む勇気が出なかった人。キーボードを叩いていても会議を進行していても、人々はどこか上の空だ。
NHKは隕石が地球に衝突するその瞬間まで報道を続けるらしい。オフィスの中央に置かれたテレビ画面に映るキャスターの目には力が漲っていた。
(この若いキャスターは最後の日を愛する人と過ごさなくてもいいのだろうか……)
昨日までは何よりも大事だと思っていた会議をあっさりと終えた英雄は、ぼんやりそんなことを考えていた。
そのとき、背後で手を鳴らす音が聞こえた。フロアで働く社員が一斉に音の方に振り向く。発生源は部長のようだ。ビール瓶を両手に抱えて、複雑な顔で笑っている。
「いやあ……こんなことを言うのは部長失格かもしれないけど、みんなで最後に一杯やりませんか? 私も大概いやな奴だったと思いますが、色んな重圧があったんですよ……どうかこれでチャラにしていただきたい」
一瞬の沈黙の後、どこからとなく温かな笑い声が漏れ出した。拍手が沸きあがる。いい会社だと思った。英雄が失ったものは確かに大きい。しかし、この仕事に人生を捧げてきたこともまた、間違いではなかったと思えた。
周囲の人と乾杯して、大嫌いだった部長に注がれたビールを勢いよく飲み干した。
この瞬間にも愛し合う兄妹は口づけを交わし、子供を殺された親は復讐を果たし、露出狂は全裸で街を歩いているのかもしれない。すべての人々を愛おしく思った。妻が愛する人と幸せな時間を過ごしていることを願った。
迫りくる隕石は神々しく輝いている。
目の前が真っ白になり、誰の顔も見えなくなった。
その光はすべての人々の行いを許し、包み込んだ。