無邪気さと決別した私たち|土井裕泰監督『花束みたいな恋をした』
はじまりは、おわりのはじまり。
恋の生存率は、恐ろしく低い。
それなら、傷つくことのないように、恋愛を器用に避け続けることはできるだろうか。
愚問。恋が死ぬ度に「そんなもんだ」って思いながらも、私たちは懲りずに落ちてしまう。やがて悲しみに着地する穴に。
生き延びた恋が奇跡的に穏やかな愛に変わったとしても、生物である限り、別れは必ず訪れる。
だったら、結末のことなんて忘れよう。どれだけ言葉を交わして、どれだけ笑ったか。どれほどの時間を隣で過ごしたか。
「あの時、本当に楽しかったね」
そう話せる思い出を、どのぐらい積み重ねられたか。
恋愛に成功などというものがあるとしたら、きっとそういうことだと思う。
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映画『花束みたいな恋をした』を観て、私と同年代以降、つまり30代以降の人たちは、懐かしさといたたまれなさの中に放り出されたのではないだろうか。
大学生の絹ちゃんと麦くんは、いかにもフィクションらしい「運命的」な出会い方をする。それなのに、ご都合主義だと笑い飛ばせず、むしろ画面を通して昔の自分を見ているような気持ちになるから不思議。
履いているスニーカーや本棚に並ぶ漫画、好きな作家などのディテールが、出会いの場面に欠けているリアリティを補完していることに加え、二人の「無邪気さ」が記憶をちくりとつつくから。だから、まったく同じ経験をしたわけではないのに、狂おしいほど懐かしく思えるのかもしれない。
同じ映画監督を知っている。同じライブに行こうとしていた。そんな小さな共通点を、無邪気に運命だと感じる二人。撮影した動画を今から家に観にきて、と無邪気に誘う麦くん。出会ったその日に、無邪気に応じる絹ちゃん。
彼らの無邪気な日々は続く。就活で悩む絹ちゃんに、麦くんはやさしく声をかける。「やりたくないことなんて、やらなくていいよ。一緒に暮らそうよ」と。
けれど、卒業して働きはじめると、二人は各々の人生に飲み込まれていく。歯車が噛み合わなくなる。度重なるすれ違いは、彼らの「運命」が願いのようなものでしかなかったことを徐々に露呈していく。
この感覚を、知っているような気がする。私たちは、社会に出てから獲得した価値観で、あの頃の無邪気さを少しずつ覆い隠してきたから。価値観は鎧だ。そして剣にもなる。
無邪気さを失った大人として描かれているのが、絹ちゃんの両親や麦くんの父親だった。麦くんと絹ちゃんも、その不可逆の「成長」から逃れることはできない。私たちだって、そうだった。
これは、恋愛だけに限らない。友人関係も同様だ。だからこそ、本作は深い部分で共感を生む。ジョッキを片手に、ただ馬鹿みたいに笑っていたあの頃とは、あらゆることが変わった。
私たちは注意深く選ぶようになった。手に入れた剣で、ばっさりと切り捨てるようになった。自分の正当性を確信するための戦いだ。
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価値観を振りかざして、何度も切りつけあって、泣いて。疲弊して、諦めて、終わりを受け入れた。どんなに足掻いても、無邪気だった日々には戻れない。この道は一方通行だから。それなら。
幸せだったことを、幸せに思おう。
二人の記憶には、おわりがないから。
そんな温かさに満ちた、ラストシーンだったように思う。
傷だらけの私たちを優しく抱きしめてくれるような。
もう、涙は要らなかった。