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長男という存在

ヨルダンにいるときょうだい格差を感じることが多い。とりわけ長男は他のきょうだいたちとは別格である。とてつもなく大切にされている。
日本でも長男は古来から大切にされてきた。私の父親は長男だけれど、昔から甘やかされて育てられてきたエピソードは父親の弟から聞かされたことがある。ヨルダンも日本同様に家父長制なのでとても似ている。

しかしヨルダンでは日本以上に長男は別格である。まず、長男を授かると両親は「アブ・●●(アラビア語で父+長男の名前)」「ウンム・●●(アラビア語で母+長男の名前)」という名前で呼ばれる。もちろん自身の本名はちゃんとある。例えば長男アハマドが生まれると身近な人からは父親は「アブ・アハマド」、母親は「ウンム・アハマド」と呼ばれる。長子が長女だとしても、●●には長男の名前が入る。日本語に訳すと「アハマドのお父さん」「アハマドのお母さん」と呼ばれていることになる。ご近所さんや親しい職場の同僚たちは気軽にそう呼んでいる。

初めて聞いたときはなんと紛らわしシステムなんだ!と思っていた。だって呼びながら2つあるようなもので「アブ・アハマドが〜」って言われて「アブ・アハマドって誰?」ってなるし、逆に私が「アブ・アハマドが〜」と話したら「誰のこと?」って言われたこともある。まぁ一応、この呼び方は一部の親しい人たち同士でしか使っていないような気がするのでそんなに大混乱は起きない。ムスリム大多数のこの国では「アハマド」はびっくりするくらいたくさんいるのでこの名前で呼ぶとみんな「アブ・アハマド」になってしまう。

この「アブ・●●」「ウンム・●●」と呼ばれることは両親にとってはとても誇らしく嬉しいことらしい。私からすると自分の名前を呼んでもらえないなんて!と思ってしまったのだけれど、こう呼ばれている人はすなわち長男がいるということを意味するので、子孫繁栄・家庭を持つことが素晴らしいという風潮が色濃く残るヨルダンでは誇り高い愛称のようだ。と同時に私は人生の軸が「自分」から「子供」に移ったというのを強く感じさせる愛称だなと思う。

この愛称を聞くたびに、「アブ・●●」「ウンム・●●」に名前を絶対に入れてもらえない他のきょうだいたちに思いを馳せるときがある。長男に嫉妬を抱いたりはしないのだろうか。それともそれが当たり前だからと受けれいているのかな?

この呼び方からしても長男は大切にされていることがわかるのだけれど、それ以外にも長男に関する話しはいろんな家庭から聞かされる。長男はいい大学に行っていて、逆に三男はちゃらんぽらんでどうしようもないとか、長男の大学を卒業した写真は飾ってあるのに次男の写真はどこにも飾られてないとか、子どもの写真を見せてとお願いすると長男の写真は多数出てくるのに、次男の写真が全然出てこないとか、長男の話しは聞くけれど次男の話しは出てこないとか。跡継ぎだから大事に育てているのかもしれない。ヨルダン家庭における長男は優秀でしっかりしていなければならない。とにかく長男の存在は大きい。

ということは、両親からすると何が何でも長男を産まなくてはならないというプレッシャーはとてもとても大きいし、長男に生まれてしまった男性は両親や社会からのプレッシャーがとても大きい気がする。それが"優秀な"長男を生み出しているのかもしれない。

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