アイスクリームと脱走者/25
25.遅めの反抗期だろ
土曜日。体調が良くなったせいかふとカレーが食べたくなり、久しぶりにルーから作った。
めずらしく家族全員そろって食卓を囲み、テレビからはニュース番組が流れている。父はいつも通りアナウンサーに言葉を返し、兄と母は気まぐれにその会話に加わっていた。
空になったカレー皿を手に兄が腰を浮かせ、母が「おかわり入れようか」と立ち上がる。それだけのことに、わたしは苛立ってしまう。
ポケットの中でスマホが震え、母が「電話?」とわたしを見て、「うん」とうなずいて居間を出た。そのまま自室へとあがった。
「休んでいいって言ったのにゴメン。千尋ちゃん、明日出れないかな?」
店長は早口で、切羽詰まっているのが伝わってくる。
「明日、波多にはオフショアに行ってもらうことになるんだ。急な予約だったから断ろうと思ったんだけど、どうしてもって頼まれちゃって。三時からの貸し切りが七時までで、片付けも含めたらこっちに出るのは無理だから」
「分かりました。わたしはうまし家に出ればいいんですね。体調もバッチリだし、大丈夫です」
「ありがたい。じゃあ、頼むよ」
ホッと息を吐いたのが聞こえ、「明日よろしく」と店長は慌ただしく電話を切った。
ヒロセさんもきっとオフショアで、波多もオフショア。安堵と寂しさが入り混じって、自分の気持ちがわからなくなる。振り切るように階段を駆け下りた。
テーブルの上にはわたしの皿だけが残っていて、兄はビール片手にソファで寛いでいた。「ここで話せばいいのに」とからかうようにわたしを見る。
「やだよ」
「別にお前の電話なんて誰も興味ないよ」
「どこで話そうがわたしの勝手」
「店長さんだったんでしょ?」と、母が呆れ声で口をはさんだ。また、苛立ちが募る。
「千尋、アルバイト辞めたのかと思ってたわ。今週ずっと休んでたし。いっそ居酒屋なんて辞めて、もっと早く帰れるバイトにしたら。家庭教師とか色々あるでしょ。うちの会社手伝ってもいいのよ。大学に入ってからバイトばかりで、家のことなんてほとんどしてないんだから」
母の小言は喋り始めた時点で終着点が見える。だからこそ「またか」と聞き流して来れたのに、バイトを休んで顔を合わせる時間が増えたからか、我慢がきかなくなっていた。
「お兄ちゃんだって家のことしないじゃない。だいたい、わたしが家で何してるかなんて知らないくせに」
空気が悪くなるのを感じてか、祖母が「まあまあ」と間に入った。
「千尋は空いた時間見つけて、おかず作ってくれるのよ。遅く出るときは掃除もしてくれるし」
「もう、おばあちゃんは千尋に甘いんだから」
祖母の援護は一蹴されてしまった。父が病で倒れてから、母は祖母に対して遠慮がない。
早くこの場から去りたい一心で、残っていたカレーを口に詰め込んだ。会話は途切れ、みんなテレビに目を向けている。
「ああ、そうそう、これこれ。千尋」
さっきまでの険悪なムードは幻だったように、母は嬉しげにテレビ画面を指さした。こういう切り替えの早さが、わたしにはない。
ニュースは終わって、画面には『LGBT/映画に見る社会のありかたと未来』とあった。圭の顔が浮かぶ。
「これが、何?」
「千尋の同級生で、店長さんの家の近所の男の子いたでしょう」
母は特別な秘密を仕入れてきたように得意げな顔をした。そして、わたしの記憶にある小学校時代の友だちの名前を口にする。
みっちゃん。
「……いたけど」
「その子がね、街で女の格好してるとこ見たって人がいたのよ。聞いたら、専門学校辞めちゃって夜の店で働いてるんだって。あそこの家ひとりっ子でしょ。せっかく男の子産んだのに、親がかわいそうって、みんなで話してたのよ」
しくしくと胃が痛んだ。わざとらしくため息をついてみるものの、母にはまったく響かない。
「こんな田舎にもいるのね。変な目で見られるのに、わざわざそんな格好するなんて」
「変な目で見てるのはお母さん。自分の常識が世間の常識だと思わない方がいいよ」
「そんなことないわよ。みんなそんなふうに言ってたんだから」
「みんなって誰。どうせオバサンが二三人でしょ。偏りすぎ。そういう人の気持ちなんて何も分からないくせに」
「じゃあ、千尋は分かってるっていうの?」
その言葉に、動揺した。
圭の気持ち、彩夏の気持ち、友花さんや愛莉さん。わたしが「分かってる」なんて言ったら、彼らはどう思うだろう。
「分からないけど、分かろうと思うよ。色々あるんだろうなって」
顔をそむけていたから、視野の外からケラケラと笑い声がした。
「お母さんは分からない。男になりたいなんて思ったことないもの」
母の言葉が嫌味や皮肉なら、まだ耐えられたかもしれない。それは、純粋に思ったままを口にした言葉だった。わたしの中で、何かが弾けた。
「じゃあ! お母さんの体から子宮も卵巣も全部とって、みっちゃんにあげたらいい。そしたら少しはみっちゃんの気持ちが分かるよ」
わたしは箸をテーブルに叩きつけた。母はガタリと椅子から立ち上がる。
「何てこと言うの、千尋! 頭おかしいんじゃない。誰が産んだと思ってるのよ!」
母の目が赤く充血していた。ストンと椅子に座り、嘆くように首を振る。
わたしは絶望していた。
”頭おかしいんじゃない”
その言葉で、床が抜け落ちたように足元がフワフワしていた。わたしの気持ちは、”おかしい”。
「千尋、言いすぎだぞ」
成り行きを見守っていた父が、強い口調で言った。わたしは溢れそうになる涙をこらえ、食べかけの皿を重ねて席を立ち、台所に駆け込んでピシャとガラス戸を閉めた。
「気にしなくていいよ。遅めの反抗期だろ」兄の声が聞こえる。
食べ残しを三角コーナーに放り入れ、鼻をすすりながらガシャガシャ音をさせて皿を洗っていると、いつの間にか祖母が隣に立っていた。
「おばあちゃん」
口にした途端、涙が頬を伝った。祖母はわたしの背中をポンポンと叩く。その優しい手に、これまで何度救われてきたか分からない。
「千尋、ちゃんとあとでお母さんに謝んなさい、ね」
「おばあちゃんの、バカ!」
すべてがどうでもよくなり、声が裏返るのも構わずに叫んだ。階段を駆け上がり、部屋に入って鍵を閉める。
悔しさと涙で頭がガンガン割れそうだった。布団をかぶって嗚咽をこらえ、何度も深呼吸して息を整える。泣き声は聞かれたくなかった。
次回/26.好きがいっぱいあったら
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アイスクリームと脱走者【完結】
長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。
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