Bad Things/21
恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス
【extraミナト】
この広い学内で恋敵を目にしたのは初めてだった。
構内の中央広場を囲う銀杏の木々はほとんど落葉し、彼は骨だけ残ったような寒々しい枝にスマホを向けていた。そいうえば、あいつはカメラが趣味だった。
着信音でも鳴ったのか、彼は空に向けて構えていたスマホを、慌てて耳元に当てる。と、ムカつくくらい幸せそうな笑みを浮かべたのが遠目にも分かった。
「チカさんからかな……」
彼の電話の相手を想い、小さく吐息が漏れる。
私の片思いの相手は五つ年上の女の人で、そして恋敵は同い年のあの男だ。ニヤけたあいつを睨んでみるものの、本当の恋敵は彼ではなく「ヒナキ」さん。
ヒナキさんは『レスプリ・クニヲ』というフレンチ・レストランの料理人だ。私はそこでアルバイトをしていて、チカさんは野菜を卸してくれている三谷農園の人。
チカさんはヒナキさんのことが好きだった。それに気づいたのは、私がチカさんのことを目で追っていたからだ。
仕事と称してチカさんがあの男と『レスプリ・クニヲ』を訪れたとき、彼女はヒナキさんへの恋を終わらせようとしているように見えた。と同時に、新しい恋の可能性をすぐそばに見つけたようにも思えた。
「ミーナトー」
振り返ると、同じゼミのカノンという一つ年下の女の子が手を振っていた。学年は同じ二年。
”サバサバとした”という形容がぴったりなカノンは年下からの人気が絶大で、一人でいるところを見かけるのは久しぶりだ。いつも誰かがくっついている。
傍から見れば今彼女にくっついているのは私ということになるのだろう。それは何だか癪だ。
「カノン、取り巻きは?」
私の皮肉に「なにそれ」と屈託ない笑顔を返してくる。自然な動作で絡められた腕を、私はあからさまに払い除けた。
「ミナト、つれない。くっついてた方が暖かいよ」
たしかに今日は予報以上の冷え込みで、昼過ぎから急に気温が下がっていた。コートの下にもう一枚着てくればよかったと後悔したけれど、あとはマンションに帰るだけ。走れば五分もかからない。
「もう帰るだけだし」
じゃあね、と背を向けて歩き出すと、カノンは足早な私にあわせてついて来た。
「ねえ、ミナトがさっき見てた人って知り合い? 片思いとかそういうやつ?」
「違う」
「知り合いなら紹介してよ。ちょっとタイプかも」
こういうところが嫌いだった。
来るもの拒まず、あれやこれやと手当たり次第。それぞれがどれほどの関係なのかは知らないけれど、広く浅いのか、広く深いのか。彼女の交友関係は目障りだった。
「無理だよ。あの人には好きな人いるから」
「そうなの? でも好きな人ってことは、まだ恋人じゃないってことでしょ」
「さあね。でも家族ぐるみの付き合いみたい」
嘘ではなかった。あの男はチカさんのいとこで、しかも三谷農園でアルバイトをしている。クリスマスには彼女の両親も含めた四人で『レスプリ・クニヲ』に予約を入れていた。
カノンは「ざーんねーん」と歌うように口にし、また私に腕を絡めた。
「ねえ、ミナト今日バイト休みでしょ。鍋しようよ、鍋。ミナトんちで」
「やだ」
カノンの部屋は私と同じマンションの階違いだ。階違いで良かった。
毎夜毎夜、バリエーション豊かなメンツが入れ代わり立ち代わり彼女の部屋へと吸い込まれていく。それを見るのは、どうにも気分が悪い。
通りからマンションを見上げるとその光景が目に入り、聞こえてくる甲高い笑い声に胃がキュッと締めつけられる。どうしてこれほどまでに彼女の言動が腹立たしいのか、考えるのも苛々するから私はマンションを見上げないことにした。
それなのに、カノンは三階の通路から声をかけてくる。すると周りにいた雑魚どもも手を振り、私は愛想笑いで手を振り返して自己嫌悪に陥るのだ。
「神戸牛、すき焼きセット」
魅惑的な言葉にカノンの顔を見返す。その口元がニヤリと笑った。
「誕生日祝いって、実家のおばあちゃんが送ってくれたの。一緒に食べよ。ミナトんちで」
「なんで、うちなのよ」
当然だがすき焼きを拒む気はなかった。
「誕生日の人を、もてなす人」
カノンはそう言いながら自分を指さし、私を指さした。
「カノン、いつが誕生日なの?」
「今日」
マジ、と問いかける私に「マジマジー」とケラケラ笑う。
普段あれほど取り巻きを引き連れながら、どうして誕生日に予定もなくうちに来るなどと言うのか。訝しむ私の腕を引いて、カノンは浮かれたステップで前を行く。
ピン、……ポーンとチャイムが鳴った。
部屋の中に鳴り響いた音を吹きさらしの通路から聞き、鳴らした本人は人差し指を立てたまま私を見てニカッと笑った。
「カノン、それ鳴らす意味があるの? 住人はあなたの隣にいるけど」
「だって、彼氏とかいたりしたらお知らせしといたほうがいいかと思って」
「いたら帰れって連絡してるよ」
呆れながら鍵を開けてカノンを招き入れる。
彼女がこの部屋に来るのは初めてだった。こんなに近くに住んで、毎日のように顔を合わせているにも関わらずだ。
彼女の鼻歌を聞きながら、安易にも肉につられて我が領土に足を踏み込ませてしまったことに、若干の戸惑いを覚えた。
――困った。
ふと頭に浮かんだ自分の言葉に、しくりと胸が痛んだ。
「ミナト、これ着て接客してるの?」
カーテンレールに引っ掛けたハンガーにはサロンエプロンがかかっている。カノンはすっかり乾いたエプロンの裏表を眺め、物珍しそうに「へえ」と目を輝かせた。
単なるエプロンなのにと、つい笑いが漏れる。それに気づいたカノンは満面の笑みになり、私は慌てて笑みを引っ込めた。
「ミナト、本当に彼氏いないんだね。彼氏どころか、この部屋最近誰か来た?」
ベッドの脇に投げ置かれた服を畳みながら、カノンが呆れ顔を向ける。たしかに誰も来ていない。
学校へ行って、アルバイトのシフトを目一杯入れて。数少ない休みには部屋にこもって映画でも観るか、せいぜい近くの喫茶店で雑誌をめくる程度。
一人で過ごす時間が増えたのは、チカさんにフラれた飲み会からだ。
酒がかなりまわって、私はチカさんに強引にキスをした。
以来、仕事場で顔を合わせても平気なふりをするのが精一杯。チカさんがそれまで通りに接しようとしてくれているのが伝わってきて、私は本当にバカなことをしたと後悔した。
チカさんは大人で、私はそれに救われたのだ。それなのに。
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