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アイスクリームと脱走者/19


19.構ってほしいから

 ザアッと雨が吹きつける音がした。見慣れない天井。ぼんやりとくぐもった音は遠雷のようだ。

 あまり眠れなかった。瞼が重く、体は鉛のようで立ち上がる気力がない。布団の中で丸まると、廊下からガチャとドアの開く音がした。足音が近づいて来る。

「千尋ちゃん、起きてる?」

 なんとか体を起こし、襖を開けた。

「おはようございます、美月さん」

「おはよ。思いっきり寝起きね」

 いつから起きていたのか、美月さんはスッキリした顔をしていた。昨夜の酒は少しも残っていないようだ。それなのに「ちょっと二日酔い気味なのよね」などと言う。

「美月さん、昨日の夜のこと覚えてますか?」

 美月さんは小首をかしげてわたしを見た。

「私なにかやらかした? そんな酒癖悪くないはずなんだけどな」

「酔ってる感じに見えなかったけど、美月さんは覚えてないだろうって、啓吾さんが」

「ああ」と美月さんは納得したように笑う。
 
「千尋ちゃん、十時くらいに出よう。とりあえず、朝ごはんあるから下に来て。啓吾いるから着替えてからね」

 髪はボサボサ、ブラジャーもつけず、顔はむくんでいる。忠告どおり服を着替え、タオルで顔を隠して階段を下りた。

 ドアの向こうから話し声が聞こえ、かすかにコーヒーの香りが漂ってくる。

 洗面所で鏡を見ると思ったよりも瞼が腫れていて、冷たい水で顔を洗っても腫れは引きそうになかった。たぶん、泣いたせいだ。

「千尋ちゃん」

 鏡越しに、美月さんの姿が見えた。

「おしぼりレンチンしてるから、目の辺あっためてみたら? メイクはその後で」

 返事をする前に、美月さんはわたしの手を引っぱった。さっきより濃いコーヒーの香りがしてくる。

 リビングに顔を出すと、キッチンに啓吾さんがいた。

「おはよ」

「おはよう、ございます」

「千尋ちゃん、そこ座って」

 美月さんはダイニングテーブルの四つある椅子のひとつを指さし、自分はその向かいに腰をおろした。

 ピーッと電子レンジが鳴り、啓吾さんがタオルを取り出す。パタパタと振って二つに折り畳み、「熱いよ」とわたしに差し出した。

「たしかに、ちょっと瞼腫れてるかな。千尋ちゃんのカワイイ顔が台なしだ」

「腫れてなくてもブサイクだから、変わんないです」

 タオルを受けとって椅子に座り、瞼に当てた。気持ち良くて、このまま眠ってしまいたくなる。

「千尋ちゃんって、マヤジに似てない? なあ、美月」

「マヤジって誰。私の知ってる人?」

 美月さんの反応に啓吾さんが笑う。コーヒーミルの音がして、挽かれたばかりのコーヒー豆の香りがした。

「モデルだよ。最近よくテレビで見かけるけど、美月は興味なさそうだな」

「そのマヤジっていう人は知らないけど、千尋ちゃんブサイクじゃないし、卑屈になってもいいことないよ」

「でも、小学校の頃からブスって言われてたから、なんか染み付いちゃって」

「小学生の言う『ブース』ってのは、お前が気になってるから構ってってことなんだよ。千尋ちゃん」

 啓吾さんがクスクス笑っているのが、すぐそばで聞こえた。

「おまたせ」

 タオルを退けると、テーブルにはコーヒーとサンドイッチがある。マグカップを手にとって息を吸い込むと、湯気とともに香りが体の中に入ってきた。

「いただきます」

 あまり食欲はなかったけれど、これくらいなら食べれそうだった。トマトとハムをはさんだクロワッサンサンド。

「美月もコーヒーもう一杯飲む?」

「うん、飲もうかな」

 啓吾さんはマグカップふたつを手にキッチンから戻ってくると、美月さんの隣に座った。私ね、と美月さんが言う。

「フロッ爺、好きなのよね。ブサイクだけど、カワイイ。万人ウケしないけど、万人ウケするモノよりよっぽど魅力的だと思う」

 どうやら、さっきの会話の続きのようだった。

「フロッ爺と比べられても、フォローになってないですよ。美月さん」

「だよね」と美月さんは肩をすくめた。

「わたし、高校のときにも『ブス』って言われたんです。小学生じゃないし、やっぱりブスはブスって意味ですよね」

 向かいに座るふたりは顔を見合わせている。

「ケンカして、勢いでとかじゃなくて?」と美月さんが聞いた。

「悪気があって言ってる感じじゃなくて、フツーに『ブスだよね』って」

 また、ふたりは顔を見合わせる。困らせてしまったかもしれない。

「悪い人じゃないし、今でもやりとりがあるので、別にいいんですけど」

「それって、男の子? 女の子?」

「男、です」

「千尋ちゃん、その子のこと好きだったんだ」

 美月さんがあまりにも確信を持って言うので、わたしは驚いて首を振った。そんなわたしを見て、ふたりが笑みを交わしている。明らかに誤解されてしまったようだった。

「今も連絡とってるなら、本人に聞いてみるのが一番だろ」

「そうね、啓吾の言うとおりかも。もしかしたら小学生レベルの『ブース』かもしれないじゃない。千尋ちゃんに構ってほしかったのかもね、その子」

 そんなはずはなかった。あのとき、波多は陽菜乃先輩に告白した直後だったのだから。

「たぶん、言ったこと忘れちゃってると思います。それに、今さら蒸し返したくないし」

「そうね。過去をどうこうするより、これからどういう関係でいるのかって方が、大事かもしれない」

 美月さんはそう言って、クイッとコーヒーを飲み干した。

「朝から饒舌だな、美月。まだ酔ってんじゃないのか?」

「何言ってんの。そろそろ出かける準備しなきゃ」

 朝食を食べ終え、わたしは皿を片付けてリビングを出た。美月さんと啓吾さんはまだ話している。ふたりはこれから、どういう関係になっていくのだろう。

 美月さんはもう、過去をどうこうしようとはしていない。わたしは、ヒロセさんとのことをどうしたいのかわからない。まだ”過去”にできていない。


次回/20.熱にうかされて

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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