虚構文庫解説『くじら短編集』
〈解説〉 佐藤 詩緒
くじらの話。と、これまでの読書歴を振り返って真っ先に思い出したのは、国語の教科書に載っていた『くじらぐも』だ。小学校の文化発表会で、その他大勢みたいな女の子を演じた記憶がある。
ちなみに『くじらぐも』の作者が『ぐりとぐら』の中川李枝子さんだということを、この解説文を書くにあたって知ることができた。うれしい発見である。
空に浮かぶ大きなふわふわした白いもの。刻一刻と姿を変えていく雲のありさまは、小説と似ている。おそらく、読者の誰もが「雲が何であるか」を説明することはできるだろう。けれど、「雲に何を見るか」は果てしなく自由だ。
「くじら」という言葉のイメージは、どこか雲に似ている。鯨を直接見たことはなくても、大抵の人は悠々と海原を泳ぐ姿をテレビで見たことがあるだろうし、「鯨」と入力して検索すればいくらでも詳細な情報を手にすることができる。ただし、それは「くじら」の一面に過ぎないということを、この『くじら短編集』は物語っている。
「くじら」とは。その答えは千差万別だ。
最中万頭さんの『アンニュイな52ヘルツ』では、107歳まで生きた女性が半世紀以上前の航海士ジョイスとの恋を死の間際に思い返す。最期のとき、おそらく彼女には52ヘルツの周波数で鳴く鯨の声が聴こえたのだろう。コメディ作家として知られる最中さん初の純文学だが、どこにこんな世界を隠し持っていたのかと驚愕する。
『ぽっこりクジラ島』というタイトルを見て、読む前に「ふざけてるだろ」と著者本人にメールを送った。田中P太郎さんとは週一で飲みに行く仲である。しかし、その次の飲み会で私は『ぽっこりクジラ島』について熱く語ることになる。田中P太郎本人に向かって。
クジラ島という幻の島は、少年タケシが窮地に陥るとポコッと突然現れる。海だろうが山だろうが学校だろうが関係ない。自分にだけ見えるその島で彼は新たな仲間と親しくなるが、タケシが別の世界(現実)と行き来していることで疎外されはじめる。現実へ戻るのか、島で暮らすのか。ファンタジー小説だが、そこに描かれているのは誰もが体験したことのある現実である。私ならどうするのか。延々考え続け、私はそれを田中P太郎にぶつけた。結論はまだ出ていない。
『金魚鉢を飲む』エッセイストとして活躍している夏川祭さんの作だ。あまり知られてはいないが、少女たちの日常を繊細な筆致で描いた掌編集『ほどける金網』は隠れたベストセラーと言われている。そんな彼女がSF小説として「くじら」を書いたというのも面白い。いわゆるタイムリープものであるが、鯨を金魚鉢で飼うという発想がまず突き抜けている。時空の歪んだ金魚鉢に住む鯨との哲学的な対話が魅力だが、夏川祭にしか書けない、一筋縄ではいかない作品だということは、主人公イタリの最後の言葉「飲んだら出るんだよ」に集約されている。鯨の飲み込んだ世界は、もしかしたら私たちの目の前にあるこの世界かもしれない。
トリを務めるのが、うみの久志羅さん『狩る者』だ。1999年、アメリカ北西海岸オリンピック半島に住むマカー族が捕鯨を行った。手漕ぎカヌーから銛で刺すという古来の伝統漁法である。シーシェパードに賛同する反捕鯨派の父を持つジョゼフは、捕鯨は伝統文化だと主張する恋人サラとの間で葛藤する。"鯨を狩る"という行為は文化なのか虐待なのか。タイトルにある"狩る者"とは一体誰なのか。
私は小学校のころ給食でクジラの竜田揚げを食べた昭和生まれである。捕鯨規制が広まる中で日本は捕鯨を継続しているわけだが、赤身の刺身で日本酒をクイッといきながら必ず鯨食文化の是非が頭を過るようになった。変容する価値観にそぐわなくなり、存続を危ぶまれる文化は捕鯨だけではない。日常の自分の些細な選択が何を狩ろうとしているのか、改めて考えさせられる。
雲を見て想像する世界はファンタジーだ。しかし、「くじら」を想像することはファンタジーにとどまらない。
鯨は現実に存在し、触れ、食すことができる。曖昧で抽象的な「クジラ」と、生々しい現実を伴う「鯨」がこの一冊に詰まっている。読み終えて本を閉じるとき、読者は本書に描かれたどの「くじら」とも違う「くじら」を自身の中に見つけるだろう。それはやはり、雲をながめることに似ている気がするのだ。
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