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アイスクリームと脱走者/46


46.求めているものと同じものを

 史緒さんとの会食があった日、アルバイトを終えて家に帰ると玄関の明かりがついたたままだった。玄関には史緒さんのショートブーツが揃えて置かれている。

 足音を忍ばせて階段を上がり、ドアを開けようとしたとき話し声が聞こえた。兄の部屋から漏れ聞こえてくる笑い声に、他人の家にいる気分になる。逃れるようにお風呂へ向かった。

 布団に潜り込んでもなかなか寝付けず、わたしはベッドに起き上がった。

 カーディガンを羽織り、電気もつけないままカーテンを引く。冷気が窓を伝って部屋に入り込み、ブルッと肩が震えた。

 ベッドに戻り、布団をかぶろうとしたときだった。「ん…」とくぐもった声が聞こえ、その声は少しずつ抑えがきかなくなり、じきにはっきりと耳に届く。史緒さんの、あられもない声。

 頭から布団をかぶって耳を塞いだけれど、まったく眠れる気がしなかった。

 ベッドから起き出し、勢いよくドアを開けた。ガチャリと鈍い金属音が響き、ピタリと声が止む。わたしはトントンと足音をさせて階段をおりた。

 トイレから出て、仏壇の前で正座し、手を合わせた。そのあと戸棚からワイルドターキーを取り出して、台所で水割りを作る。

 わたしがちびちびとボトルの中身を消費していることは、兄以外気付いていないようだった。

 立ったまま口をつけたとき、ドアの開く音がした。ギシギシと廊下を軋ませながら近づいて来るのは父の足音だ。ガラス戸が開き、「起きてたのか」と父は言った。わたしの手元のボトルに目をとめて口元をほころばせる。

「父さんにも一杯作ってくれるか」

「いいの? お酒」

「止められてるわけじゃないから、たまにはいいだろ。千尋も二十歳になったのに一緒に酒飲んだこともなかったからな」

 千尋と同じくらいの濃さでいい、と父は言ったけど、一口飲むと「薄いな」と笑った。

「お母さんが起きてきたら怒られるよ」

「だろうな」

 家の中での父は口うるさい母の言いなり。喧嘩も記憶にない。

 一度だけ、父が泣いている姿を見たことがあった。母と何を話していたのか分からないけれど、癌の手術後、まだ個室にいたときのことだ。

 母と病院に行き、わたしは雑誌を買いに売店に向かった。病室のドアを開けようとして、いつもと違う父の声が聞こえ手を止めた。涙声が、小さく叫ぶように裏返っていた。

 数センチだけドアを開けると、父が涙を拭っているのが見えた。後ろ姿の母はギュッとこぶしを握りしめ、わたしは静かにドアを閉めて、もう一度売店に向かった。ゆっくり歩いて病室に上がると、父と母はいつも通りだった。

 シェ・アオヤマでのやりとりを見て、わたしは少し父のことを見直していた。見直したというより、思い出したのかもしれない。小さいころ連れられて行った会社の事務所で、父はあんなふうだった。

「父さんもお兄ちゃんも、家の男たちは母さんがいないとダメなんだから」

 何度も繰り返し聞いた母の言葉が脳裏に刻まれ、わたしはそれにとらわれていたのかもしれない。

「お父さんは、会社でお母さんと喧嘩したりしないの?」

「いや、家と同じだよ。母さんがいないと困るから」

「腹が立ったりしない?」

「どうだろうな。俺は楽観的過ぎるって、よく母さんに言われるしな」

 父が「俺」と言うのを久しぶりに聞いた。わたしにはいつも「父さん」だったのに。

「なんやかんや母さんに言われてるように見えるかもしれんけど、父さんは父さんでやりたいことはやってる。だから何言われようと気にはならん」

「我慢してないの?」

「我慢はしてるさ。それはお互い様だ。父さんと母さんだけじゃなくて、千尋も兄ちゃんも、ばあちゃんも、みんながお互い様。みんなが迷惑かけあって、我慢しあって一緒にいるんだ」

「それって、一緒にいる必要あるのかな」

「誰とだって、迷惑かけずに一緒にいようなんて無理だ。こっちが迷惑をかけるから、相手の迷惑も許そうって気になる」

「お母さんはいつも迷惑かけるな、心配させるなって言うよ」

「そうだな。まあ、母さんの考えてることが全部分かるわけじゃないし、うるさいなあって思うこともある」

 父はおどけるようにニヤリと笑ってみせた。わたしがつられて笑い声を漏らすと、安心したように「ふう」と息を吐く。

「なんにせよ、母さんがお前のことをちゃんと考えてるのは確かだよ」

「そうかな」

「たぶん、千尋が求めているものと同じものを母さんは返しているけど、その伝え方が千尋の思ってるのと違うだけだよ」

「わたしが求めてるもの、分かるの? お父さん」

「たぶんな。ありきたりなものだよ」

「分からないよ」

 わたしが言うと、父はおかしそうに目尻に皺を寄せた。

「千尋も母さんも素直じゃないから。こんがらがっておかしなことになるんだ。千尋は大人ぶったり、いい子でいようとしなくていいから、もっと親に甘えなさい」

「お母さんと反対のこと言ってる。もう大人なんだからちゃんとしろって言われるのに」

「そうだな」と父はまたおかしそうに笑った。

「母さんはさ、千尋にも兄ちゃんにも、まだまだ子どもでいてほしいんだよ。心配したいんだよ。自分がお腹を痛めて産んだ子なんだから」

 子離れしないとなあ、と呟く父の頬は、ウィスキーのせいかほんのり紅くなっている。

 わたしは優しくお腹をさする朝日さんの姿を思い出していた。母も、あんなふうに自分のお腹に笑いかけたのだろうか。

 ようやく瞼が重くなり、グラスを傾けている父に「おやすみ」と言って階段を上がった。

 普段は聞こえないイビキが兄の部屋からして、わたしは一人クスクスと笑った。


次回/47.千尋は千尋のペースで

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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