アイスクリームと脱走者/34
34.再婚の祝いに
講義が終わりに近づくにつれ、憂鬱な気分がジワジワこみ上げてきた。自分の家に帰るのが嫌でたまらない。
謝る気などないけれど、また、何かの拍子に暴力的な言葉を吐き出してしまうかもしれない。それが怖い。
図書館にこもって時間を潰し、閉館時刻の午後九時に大学を出た。七時過ぎから母の着信が数回あったけれど、すべて気づかないふりをした。
電話をとって、「彩夏のところでレポートして帰る」と言えば済むことなのに、そうしようという気にならない。兄にメールを送ることもしなかった。
図書館を出て確認すると、母からの着信履歴に混じって奏さんの名前があった。定休日に電話なんてめずらしいことだ。
何かあったのかとすぐに折り返し、十コールを過ぎてようやく電話に出た奏さんは、「千尋ちゃん」と無邪気な声を出した。笑い声と音楽が聞こえ、どうやらカラオケボックスにいるようだった。
「ごめん、ここうるさいからちょっと待って」
部屋から出たのかざわめきが途切れ、「おまたせ」と聞こえる。
「カラオケですか? 奏さんから電話なんて、何かあったかと思ったのに」
「何かあったよ。あった、あった。千尋ちゃん、まだ外だったらカラオケ来ない? 盛り上がってるよ。いつものところで」
お酒を飲んでいるのか、奏さんの声はいつも以上に明るい。
「誰が来てるんですか?」
「オフショアのメンバーと、朝日さんと、その友達。ヒロセさんの再婚と、パパになるお祝い、兼、送別会」
スマホをギュッと握りしめた。奏さんはわたしの動揺には気づいていない。
「ヒロセさん、年内で辞めるんだ。オフショアの人たちには昨日言ったんだけど、うまし家メンバーには明日以降に言う予定。ちゃんとした送別会はまたやるけど、朝日さんは今のうちじゃないと出掛けられなくなるかもしれないし、店の方も年末で忙しくなってくるから、集まれるメンバーでフライング送別会しちゃった」
ヒロセさんの退職をあっけらかんと口にする奏さんを、薄情だと思う。いつもヘラヘラと器用にこなし、みんなから好かれている奏さん。家に帰りたくなくてウジウジ悩んでいるわたしとは大違いだ。
奏さんの声に、わたしは少し投げやりになったのかもしれない。朝日さんとヒロセさんのツーショットを目に焼き付けてやろうという気になった。そんなことでは傷つかないと確認したくなった。
「店長もいるんですか?」
「店長は今日と明日大阪。さっき美月さんにも電話したんだけど来れないって。朝日さんが久しぶりに千尋ちゃんに会いたいって言ってるし、顔だけでも出してよ」
「分かりました。明日早いので、顔だけ出したら帰ります」
「やった。待ってるから」
奏さんはハイテンションのまま電話を切り、わたしはメール画面を開いた。
『今から送別会行きます』
隠れるようにメールを確認するヒロセさんの姿を想像する。このひねくれた気持ちが未練なのかはわからない。返信が届かないまま、カラオケボックスに到着した。
立体駐車場を三階まで上がる。月曜だからか車はずいぶん少なく、入り口近くに停めると少し離れた場所にヒロセさんの車があった。
ロビーで待っていてくれた奏さんは、電話の声ほどには酔っていないように見える。
「酔ってないよ、全然。まだまだこれから」
わたしの背中を押して部屋に向かう彼は、やはり酔っているようだった。「ここだよ」と奏さんがドアを開けると、ソファの上でボーズさんが熱唱している。まわりはノリノリで、わたしは気後れして足を止めた。
「千尋ちゃん、到着したよー」
奏さんがわたし右手を掴んで高々と上げ、イエーイと室内のテンションが上がった。高揚感に浸る人たちの中に、一人だけ愛想笑いを浮かべる人がいる。先日うまし家で見た、新しく入るという料理人さんだった。
「千尋ちゃん、朝日さんとこ行こう」
急に手を引かれて足がもつれ、倒れかけたわたしを奏さんは軽々支える。
「千尋ちゃんのほうが酔ってるんじゃないの?」
奏さんはわたしの手を掴んで奥に進んだ。朝日さん笑顔が見えて、来なければ良かったと後悔する。幸せそのものの笑みだった。
彼女の隣で、ヒロセさんが「おつかれ」と手をあげた。いつも店で見せるのと同じ笑顔。それ以上でもそれ以下でもない。
「久しぶり、千尋ちゃん。元気にしてた?」
朝日さんの隣に座らされ、「お久しぶりです」と口にしたけれど爆音で掻き消される。朝日さんの耳に顔を近づけて、わたしは「おめでとうございます」と言った。
「赤ちゃん。あと、再婚されたんですよね」
朝日さんもわたしの耳元で「ありがとう」と言う。
「実は離婚してなかったんだ。離婚届、ヒロセ君が捨てちゃったみたいで」
心臓がドクンと跳ねた。
朝日さんがわざわざこんなことを言う理由。牽制なのか、報復なのか。ヒロセさんとの関係がバレている気がしてならない。
ヒロセさんのマンションで、彩夏が拾い上げた紙。あの離婚届を、ヒロセさんはいつ捨てたのだろう。
ヒロセさんの左手には指輪がはめられていた。なぜか急に、終わりを告げられたような気になった。
「千尋ちゃん、なに飲む?」
トンと肩を叩かれ、奏さんが暢気な声で聞いてきた。開いたメニューがわたしの目の前に差し出される。
「車だからウーロン茶」
「じゃあ、俺はレモン酎ハイにしよっと」
隣の女の人が、「飲み過ぎですよ」と奏さんを窘めた。一体どれくらい飲んだのか、その女の人は心配そうな顔をしている。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないと思います。ペース落として下さい」
奏さんは「えー」と不満げな声を漏らし、「嫌なら水で」と一蹴される。
奏さんはオフショアでも相変わらずのようだった。誰にでも好かれて、嫌なことも要領よく受け流せる。
仲良く並んで座る朝日さんとヒロセさんをチラと見た。今は二人の未来を祝う宴。
トイレに抜け、部屋に戻る気にならずウロウロと時間を潰した。ヒロセさんが出て来ないだろうかと考えていたけれど、しばらくして顔を見せたのはボーズさんと奏さんだった。
奏さんはボーズさんに寄りかかり、引きずられるように歩いて来る。顔が異様に白い。
次回/35.酔いつぶれた奏さん
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アイスクリームと脱走者【完結】
長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。
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