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アイスクリームと脱走者/36


36.涙とハイタッチ

 歌うつもりでマイクを握っていた女性はイントロが終わっても固まったままで、ポップなメロディーが部屋に流れた。誰も口を開かない。奏さんはマイクを持った手をダラリと垂らし、ポツポツと喋りはじめた。

「俺、ヒロセさんがいたから今までやってきたのに。ヒロセさんに認められたくてがんばってきたのに。何の相談もなしに、ひとりで勝手に決めて、勝手に辞めてくなんて、ひどい。まだ、一緒にやりたいことが」

 奏さんはポロポロと涙をこぼし始め、わたしは間近で泣き顔を見上げていた。

「大丈夫」「負けるな」「俺がいるぞ」励ましの言葉が部屋に飛び交い、パラパラと雨音のような拍手が起こった。奏さんは雨に打たれたように俯き、置き去りにされた捨て犬みたいだ。ヒロセさんは、朝日さんと手を握り合っていた。

「そろそろお開きにしようか。三次会は、行きたいやつが勝手に行くということで」

 ボーズさんが、「最後にお二人から一言いいですか」とヒロセさんたちの方を見る。

「そうね、もう遅いし。みんなありがとう」

 朝日さんがポンとヒロセさんの膝を叩くと、彼はその場に立ち上がった。

「本当に今日はありがとう。奏も、俺のわがままで悪いけど感謝してる。また一緒に海行こう」

 ヒロセさんが、わたしを見ることはなかった。

 ボーズさんは会計に立ち、部屋は拍手で溢れかえっていた。テーブルを寄せて花道が作られ、人の隙間を縫うように歩いて来たヒロセさんはわたしの前で立ち止まる。ヒロセさんの目に映っているのは、わたしではなく奏さんだ。

「俺がいないと寂しいくせに」

 ヒロセさんの肩に顔をうずめた奏さんは、ポツリと言った。「まあな」と、その背中をヒロセさんが叩く。

 世界から隔離された気分だった。新しい料理人さんは少し離れた場所に立っていて、何とも言えない微妙な表情をしている。わたしも同じような顔をしているに違いなかった。

「ヒロセ君、幸せ者ね」

 朝日さんの本心が分からない。ヒロセさんが辞めるのはシェ・アオヤマへ行くからだとみんな知っているのに、穏やかに微笑んでいられるのが理解できない。朝日さんが不意にわたしを見て、ドキリと心臓が跳ねた。

「千尋ちゃんも、色々ありがとう」

 ”色々”に何が込められているのか。

「千尋ちゃん、こいつかなり酔ってるみたいだから、よろしく頼むよ」

 ヒロセさんはバトンタッチするように奏さんの腕をわたしに寄越し、「行くか」と朝日さんに顔を向けた。嫌がらせかと思うほど優しい笑顔。二人を取り巻くざわめきが次第に遠のき、奏さんはいつのまにかソファーで寝息を立てていた。

「奏さん、帰ろうよ」

 手を引くと、奏さんは寝ぼけまなこで体を起こす。フラついたけれど、なんとか自分で歩き始めた。

 受付カウンターの前に人だかりがあり、どうやら会費の精算をしているようだった。他の人より頭ひとつ大きいボーズさんが、わたしたちに向かって手を上げる。

「千尋ちゃんは、お金いらないから。ウーロン茶は奏の迷惑料」

「迷惑料だって。ごめんね千尋ちゃん」奏さんは、泣きつかれて眠る前の子どもみたいな顔をしている。

「奏は家帰れよ。タクシー呼んでやるから」

 ボーズさんの野太い声に、奏さんが「いやだ。次行く」と抵抗する。ボーズさんはそれを無視し、エレベーターに向かった。駐車場への通路に向かう人の中に、ヒロセさんと朝日さんの姿が見える。

「ボーズさん。わたし、奏さん送って行きます」

 わたしの声に、ヒロセさんと朝日さんも振り返った。自分でもよく分からないけれど、わざと聞こえるように言ったのだった。一人で帰るのが嫌だったのかもしれない。

「じゃあ、お願いしていいかな。奏、家の場所くらい説明できるだろ」

「俺、次の店行きたい」

「ダメです」

 わたしは奏さんの腕を引っ張り、ボーズさんに手を振って駐車場へ向かった。二人の後ろ姿が、まだ見えている。

 自動ドアの手前まで来たとき「千尋」と呼ばれて振り返った。圭がパタパタ足音をさせて駆け寄ってくる。

「見送りなんていいのに」

 わたしが言うと、圭は顔を寄せて「ヤケになるなよ」と耳打ちした。顎をしゃくって、促された視線の先にいるのはヒロセさんたちだ。駐車場に吹き込んだ風でコートの裾がバタバタとはためき、お腹の目立つようになった朝日さんを、ヒロセさんは二人羽織のようにジャケットで包み込んでいる。

「店員さん、ご迷惑おかけしました」

 奏さんが、圭に頭を下げていた。

「奏さん、この人友達だから気にしないで下さい」

「そうなんだ。あ、千尋ちゃんに送ってもらうけど、何もしないので安心して下さい」

 とんちんかんな奏さんの言葉に、わたしは小さく吹き出した。

「誰もそんなこと考えませんよ」

「俺はちょっと心配した。千尋が襲いかかるんじゃないかって」

 圭が意地悪な笑みを浮かべ、アハハと奏さんがお腹を抱える。その拍子に自動ドアが開き、駐車場に笑い声が響いた。「大丈夫かー?」と、ヒロセさんの声がする。

「大丈夫です。ちゃんと送っていきます」

 おやすみなさい、とわたしが頭を下げると、二人は手を振って車に乗り込んだ。エンジンの音が駐車場に響き、運転席の窓から朝日さんがもう一度手を振った。わたしが手を振り返すと、なぜか圭も横で手を振っていた。

 わたしたちだけが取り残され、駐車場はしんと静まる。道を走る車の音も、駅からの列車の音も、遠い世界から聞こえてくるようだった。

「じゃあね、圭」

 車に向かおうと奏さんの腕を引くと、その腕がグイと上にあがる。

「圭君、バイバイ」

 奏さんは手のひらを圭に向け、圭は苦笑しながらハイタッチした

「ありがとうございました」

 ペコリと頭を下げて、圭は仕事に戻っていく。その姿が見えなくなるまで、奏さんはぼんやりとその場に突っ立っていた。


次回/37.口止め料はチロルチョコレート

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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