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アイスクリームと脱走者/2


2.酔っぱらい

 きのう、九月に入って最初の定休日。

 七月にオープンしたばかりの姉妹店、カフェレストラン・オフショアとの交流会ということで、わたしと彩夏と、他にも何人か店に集合して、奏さんのワンボックスカーに乗り込んだのは夕方近く。店長の家でバーベキューをすることになっていた。

 うまし家を出ると、ほどなく海岸沿いの国道に出る。トンネルを抜けると急に田舎っぽくなるけれど、わたしには見慣れた景色だった。果樹園と、畑、ところどころに集落。ふいに視界がひらけて海が見え、またすぐに見えなくなる。

「千尋ちゃんちもこの辺なんだよね」

 奏さんは前を向いたまま言った。わたしは彼の真後ろに座っていた。

「もうちょっと先です。ここよりもっと田舎」

「マジ?」

 隣の彩夏がわらい、他のスタッフたちの何人かが驚いていた。

「千尋ちゃん、家から自分の車で来た方が早かったんじゃない?」

「車だったら飲めないじゃないですか。奏さんは飲まないんですか?」

「飲むよ。帰りの運転手は確保済みなんだ。オフショアのバイトの子」

 奏さんがムフフとわらう。

「もう着くよ。何人か先行部隊で準備はじめてるから、俺たちは食べて飲むだけ」

 車は海沿いの道を外れ、畑の中を進むと小さな集落が見えた。小高い丘の上で、うしろを振り返ると松林の向こうに海が見える。

 民家の前の道に四、五台の車が停まっていて、奏さんはその並びに車をつけた。

 車から降りると、彩夏は海に向かって両手をひろげ、「着いたー」と叫んだ。風はなく、海は凪いでいるように見える。

 奏さんの後をついて合流すると、庭には二十人ほどがいて、半分くらいは知らない顔だった。

 いかにもといった風情の古民家と、農機具小屋兼ガレージのような建物。バーベキューコンロからは煙があがり、アルミホイルに包まれているのは魚介なのか、磯っぽく香ばしい匂いが漂っている。

 脇に置かれた木のテーブルには飲みかけの缶ビールが三本、無造作におかれていた。

「おー、やっと来たか。荷物、邪魔だったら家ん中置いてこい。縁側から入れる」

 頭にタオルを巻き、暑そうにティーシャツをパタパタとめくる店長の右手には調理用のトングが握られていた。もう片方の手にはビール。

「あそこ」

 店長がトングを向けた先に、開け放たれた縁側があった。その奥にうす暗い和室が見える。

 彩夏と一緒に歩いて行くと、母屋の玄関が開いて初老の男性が顔を出した。首にタオルをひっかけ、麦わら帽子をかぶっている。

「おやじー、その子が美郷《みさと》さんちの娘さん。このまえ話しとったろ」

 店長の声がうしろから聞こえ、その男性は彩夏とわたしの間で視線をまごつかせた。

「あの、美郷《みさと》千尋《ちひろ》です。隆彦の娘です」

 あわてて頭を下げると、男性は麦わら帽子をひょいと持ち上げて会釈する。店長が風船のように萎んだら、この人みたいになるかもしれない。

「タカボーの娘さんなあ。あんたの家のおじいさんには世話んなって。亡くなったのはもう何年前になるかなあ」

 祖父のことはあまり憶えていなかった。仏壇の写真はいつも同じ顔で笑っていて、わたしにとって祖父の記憶は映像というよりぬくもりだ。布団の中で触れる、ジョリジョリしたすね毛。

「まあ、何にもないけどゆっくりしてって」

 店長のお父さんはそう言って、のんびりと農機具小屋の方へ歩いて行った。背中が、なんとなく祖父に似ているような気がした。

 縁側に腰をかけてサンダルを脱いでいると、奥から足音が近づいてきた。畳を踏みならして現れたのは、スキンヘッドの男のひとだ。食材の盛られたバットを持ち、身長がずいぶん高くて、座っていたわたしはほとんど真上を向いていた。

「おー、女の子来た。うまし家の子だろ。オフショアのボーズです。よろしくー」

 口元の髭がモゾっと動き、満面の笑みになった。

「おーい、ハタ。それもこっち持ってこいよー」

「はーい」と返事が聞こえた。
 
 座敷の向こうのガラス戸は半分開けられていて、にゅっと現れた手がガラガラと音をさせて戸を全開にする。氷のぶつかる音がした。

「よいしょっ」という掛け声、ついで大きな水色のクーラーボックスが現れる。知った顔がそこにあった。

「あっ」「あーっ!」「あれっ?」

 みっつ重なった声は、わたしと、彩夏と、波多君のものだ。波多君は「ミサトさん?」とわたしの顔を見たまま固まった。

「知り合い? マジー。何つながり?」

 ボーズさんが好奇心むき出しにギョロリと両目を見開いた。その横で彩夏と波多君が「あ、どうも」とぎこちない言葉を交わしている。わたしは立ち上がることもできず、縁に座ったままぼんやりその様子をながめた。

「ふたりは大学で一緒なん?」

 ボーズさんは波多君のクーラーボックスに手を突っ込み、ビールを取り出して彩夏に渡す。

「で、こっちの彼女は?」と、わたしの目の前にもビールがやってきた。

「あ、えっと。高校の同級生です」

 高校時代の自分が憑依したみたいに、言葉が出てこなくなった。

「なんなん、波多。おまえ女の子の知り合い多すぎじゃね?」

「あ、いや、全然そういうんじゃなくて」

 波多君は居心地悪そうに、「とりあえず、これ置いてきます」とビーチサンダルをひっかけて庭に出た。ボーズさんがその後を追いかけ、肘で小突きながら何か言っている。

「千尋、波多君と高校一緒だったんだ」

 彩夏はすでに缶ビールに口をつけていた。

「肉焼けたぞー」という店長の声で、交流会はなし崩しに始まる。わたしは肉もそこそこに缶ビールを二本あけ、日がまだ残っているうちから酔いが回っていた。

 星が瞬きはじめ、風が少し出て、耳を澄ますとなんとなく波の音が聞こえる気がする。ふと、この集落に住んでいた小学校の同級生のことを思い出した。

 わたしの記憶にある交流会は、ここら辺で一旦途切れている。あとで彩夏に聞いたところによると、この夜のわたしは、イメージを覆すほどハイテンションだったらしい。  

 記憶がはっきりしてくるのは、バーベキューが終わるころからだ。

 虫の音と、酔っ払いたちのゲラゲラと品のない笑い声が響いていた。何人かで二次会に繰り出そうという話になり、わたしは「千尋、行きまーす」と張り切って手をあげた。

 波多君の運転でオフショアの駐車場に向かい、その車中にはヒロセさんもいた。車を停めた波多君はキーを奏さんに渡し、「今日は帰ります」と脇にあったクロスバイクに跨って、さっさと帰ってしまった。

「ヒロセさんの家に行こう」言い出したのはボーズさんだ。

 飲み屋街をぞろぞろと歩き、人影のまばらな駅の構内を抜け、コンビニに立ち寄った。お酒とつまみを買って店を出ると、何人かスナックに行ったらしく、残ったのはわたしと彩夏にヒロセさん、ボーズさん、奏さんの五人だった。

 わたしは酔いにまかせ、ヒロセさんに腕を絡ませた。

「ヒロセさん、大好きー!」

「まーた言ってる」

 奏さんはおかしそうに笑い、彩夏とヒロセさんは顔を見合わせて苦笑していた。ボーズさんだけがキョトンとして、その様子を見た奏さんがまた笑った。

「千尋ちゃんはヒロセさんのファン第一号で、そして唯一のヒロセファンなのであります」

 作り物めいた口調で、奏さんがボーズさんに説明した。

「唯一ってことはないだろ」

 ヒロセさんの声が、わたしのからだを振動させる。

 ”ヒロセさん好き”は、ずいぶん前からわたしの持ちネタみたいになっていた。奥さんがいる人を本気で好きになってもしょうがない。だから、本当のことを知ってるのは彩夏だけだ。

 それが、ヒロセさんが離婚しておかしくなった。わたしはここ何ヶ月かそのネタを封印して、久しぶりに言葉にしてみると、なぜか少し怖くなった。

「いいっすねー、ヒロセさん。こんなカワイイ子がファンなんて。俺にもファンできないかなー」

 ”カワイイ”というボーズさんの言葉に喚起されたのか、「ブスだよね」という波多君の声が頭をよぎった。お酒でしっちゃかめっちゃかのわたしの脳内に、ユカや、陽菜乃先輩、焼きそばパンにかぶりつく波多君があらわれる。

「はいっ! ボーズさんファン1号」

 衝動的に叫んで両手をあげた。ヒロセさんから離れ、先を歩くボーズさんの隣に並ぶと、「乗り換えられちゃったな」とヒロセさんの声が聞こえる。落胆した様子はなく、楽しそうに笑っていた。

「ねえねえ、千尋ちゃん、俺は?」

「奏さんも好きですよー」

「千尋、節操なさすぎじゃん」

「嫉妬しなーい。ホントは彩夏がいちばーん」

 後戻りして彩夏に抱きつくと、「暑い」と邪険にあしらわれる。ヒロセさんの腕と違って彩夏の体は柔らかく、バーベキューの匂いがした。

 道の向こう側には花屋、ケーキ屋、事務所のような小さな建物が並んでいる。明かりはすっかり消えて、外灯と自動販売機が静かに道を照らしていた。

「着いたぞ。近所迷惑だから大きい声出すなよ」

 マンションのエレベーターを降りて、『高嶋』と書かれた表札の前で立ち止まった。

「ヒロセさんって”タカシマ”なんですよねえ」

 奏さんが感心したように言った。
 
「ヒロセって下の名前は何だっけって、よく聞かれるんだよ。ヒロセだっつーの」

 わらいながら、ヒロセさんは玄関のドアを開けた。リビングにわたしたちを招き入れ、「着替え」と奥の部屋へ引っ込む。奏さんはトイレ、ボーズさんと彩夏は部屋の中を物色し、わたしは眠気をおぼえてソファーに沈みこんだ。

 本棚には料理本がズラッと並んでいて、彩夏は適当に引き出してはパラパラめくるということを繰り返していた。

 本の隙間からハラリと一枚の紙が落ち、彩夏はしゃがみこんで拾う。レシピか何かが書かれたその紙を、彩夏は食い入るようにじっとながめていた。

 ふと、彩夏のすぐ後ろにある本棚の一角が空っぽなのに気づいた。数ヵ月前までここにいた、元奥さんが使っていたスペースなのかもしれない。

 キッチンの方から楽しげな声がしたけれど、わたしは瞼を閉じ、ソファからずるずると滑り下りて床にお尻をついた。フローリングの冷たさが心地良かった。

「ヒロセさん、しっかり日焼けしてますね。指輪の跡も消えちゃってる」

 彩夏の声にうすく目を開けた。ヒロセさんはいつの間にかキッチンにいて、立ったまま缶ビールを飲んでいる。彩夏とボーズさんの手にもビールがあり、奏さんの姿が見えない。

「ヒロセさん、独身、満喫してますか?」

「彩夏ちゃん、そこは触れないでよ。オジサンはまだ傷心中」

 わたしは耳を塞ぐ代わりに目を閉じた。少しだけ、彩夏が憎らしい。

「俺が慰めてあげますよ。いつでも遊んであげますから」

 どこにいたのか、そう言ったのは奏さんだ。

「奏、遊んでやってるのは俺のほうだろ。だれがサーフィン教えてやったと思ってんだよ。いつのまにか俺より上手くなりやがって」

「器用貧乏なだけですよ。まあ、俺の方が上手いけど。
 それより、ヒロセさん。ガリガリ君がない」

「いつまで冷凍庫あさってんだ。さっさと閉めろ」

「はいはい。これで我慢しときますよー」

「あ、俺がとっといた期間限定のハーゲンダッツ」

 じゃれあう声を聞きながら、このまま眠ってしまいそうだった。

「千尋ちゃんは」

 不意に声をかけられて顔をあげると、キッチンのヒロセさんが「寝てた?」とわらう。

「千尋ちゃんも何かいらない?」

 ヒロセさんは手に持った缶を乾杯するように掲げた。

「もう、飲めません」

 首を振り、わたしはそのまま眠る体勢に入った。

 しばらくしてソファに誰かが座った気配があり、「あー、疲れた」とヒロセさんの声が頭の上から降ってくる。

 わたしはソファーを枕にしたまま彼を見上げた。ヒロセさんが缶ビールに口をつけ、喉仏が上下する。目が合うと、彼は「飲む?」と、わたしの前に缶を持ってきた。

「一口だけ」

「これもどうぞ」

 ヒロセさんはテーブルの上のペットボトルを指さした。天然水と書かれたボトルは冷蔵庫から出したばかりなのか、結露して曇っている。

 わたしが缶ビールを受け取ると、彼は腰を浮かせて床に座り直した。すぐ傍で、テーブルに頬杖をついてこちらを見る。

「千尋ちゃんって”ミサト”だったんだね。波多がそう呼んでるの聞いた」

「知らなかったんですか? わたしはヒロセさんが高嶋だって知ってたのに」

「悪い悪い」言葉とともに、彼の手のひらが頭の上にのった。

「ミサトちゃん、って呼ぼうかな」

「イヤ。千尋のほうがいい。ミサトなんて名前、キライ」

 ビールを飲むと、苦味だけが口に残った。缶をヒロセさんに返してテーブルに突っ伏すと、
「酔っぱらい」
とわたしの頭をなでる。眠気に抗ってなんとか保っていた意識は、そのままプツリと途切れた。


 どれくらいの時間が経ったのか、肩に肌寒さをおぼえて目が覚めた。少しだけ開いた窓から風が吹き込んで、カーテンがユラユラと揺れている。

 誰が寝かせてくれたのか、わたしはソファーに横になっていた。タオルケットが床に落ちている。

 室内は薄暗く、誰の気配もなかった。眠る前のことを思い出そうとしたけど、どうして一人きりなのかまったく分からなかった。

 ブルッと体が震え、タオルケットをはおって立ち上がる。窓を閉め、外を眺めた。街はまだ真夜中で、夜が明ける気配はない。

 時刻を確かめようとスマホを手にしたとき、ガチャリと音がして奥の部屋からヒロセさんが顔を出した。すこし寝癖がついていて、上半身は何も着ていない。頭がボーッとしていたせいか、わたしは恥じらうこともなく彼の肌を見つめた。

「おはようございます」と言うと、ヒロセさんは呆れ顔でフッと息をもらす。

「千尋ちゃん、目ぇ覚めたんだ。全然お早くないよ。まだ夜の二時前。みんなが帰ってから三十分も経ってない」

「そうなんですか」

 はおったタオルケットをかき合わせると、「寒かったら、シャワー浴びる?」とヒロセさんが聞いた。

 そういう気があるのか、ないのか、考えるのが面倒で、とにかく熱いシャワーが浴びたかった。

 そんなふうに自分への言い訳を見つけてお風呂を借り、体を洗っているとき小さな罪悪感が芽生えた。ヒロセさんの貸してくれたティーシャツと、その日着ていたハーフパンツを身につけてリビングに戻ると、ヒロセさんの姿はなかった。

 ペットボトルの水を飲み、奥の部屋をノックする。ベッドに腰かけて雑誌をめくっていたヒロセさんは、あがったんだ、と本を閉じた。

「俺もシャワー浴びるから、ベッド使ってていいよ」

 部屋を出ていくヒロセさんに「はい」と返事したものの、どうしていいかわからず、ベッドの脇に座り込んだ。

 膝を抱えて顔を埋めると、ハーフパンツからバーベキューの匂いがする。ふと、波多君のことを思い出した。なんだかとても楽しい時間を過ごしたような気がするけど、何を話したのか思い出せない。

 うとうとし始めたころ、ドアの開く音で意識が戻った。

「千尋ちゃん」

 呼ばれて顔をあげるとヒロセさんがいて、上半身は裸のまま。風呂あがりのせいか、さっきとは違って素肌が生々しく感じられた。

「ここ使ってよかったのに」

 ヒロセさんはベッドに腰を下ろし、そのまま寝転がった。ベッドの傍らに座ったままの、わたしの頭にポンと手をのせ、その手はスルリと首元に滑り降りる。

「でも、バーベキューの匂いついちゃうから」

 わたしは自分の履いているハーフパンツをつまみ、ヒロセさんを見た。思った以上に距離が近く、急に心臓が音を立てはじめる。

「じゃあ、それ脱いでこっち来たら?」

 彼の言葉を理解するまでに数秒かかった。そのあいだ、ヒロセさんの指がうなじを撫でる。

 わたしは言われるままに、ティーシャツと下着だけになってベッドの端に腰をかけた。

 ヒロセさんの腕が腰にまわされる。上にのぼってきた手に怖じ気づき、体を引くとそのまま彼の上に仰向けになってしまった。

 首筋の感触は、たぶん彼の唇。舌が耳たぶを這った。

 ティーシャツをまくりあげる手、下着をずらす反対の手。指がわたしの内側に入り込み、蠢いて、わたしは荒くなる息を噛み殺している。

「声、出してよ」言ったくせに、ヒロセさんはわたしに覆い被さって唇を塞いだ。

「千尋ちゃん、緊張してる? もしかして初めて?」

 小さくうなずいた。

「でも、もうやめれないかも」

 ヒロセさんはさっきまでより優しい手つきでわたしの下腹部をなでた。触れるか触れないかというもどかしい接触が体を痺れさせる。

 探るように、焦らすように、ヒロセさんは隈なく指先と舌を這わせた。思わず声を漏らすと、彼は笑ったのか、吐息が肌をくすぐった。

 押し寄せる波のなかで、わたしは背徳感と罪悪感を心の片隅に発見した。なぜなのか、その理由はよくわからなかった。


 眠りに落ちるころ、ヒロセさんはわたしの隣で何かつぶやいたようだった。「ごめん」と聞こえた気がしたけれど、わたしは寝たフリをした。

 そのままヒロセさんの腕の中で、夜が明けるのを待った。もしかしたら眠っていたかもしれない。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、サイドテーブルに置かれた小さなガラスケースが光を反射した。その中に、静かに眠るように、指輪がひとつ鈍い光を放っていた。


次回/3.で?「した」

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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