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千本浜に花を手向けに行った。耳を塞ぎたくなるようなニュースが報道された晩には、港で大々的にイベントが開催されていて、コロナで鬱屈していた気分が弾けたのか大いに盛り上がっていた。
情報のちぐはぐさに心がついていけなかった。いつも曇天で風が強い、鈍色の海で、ただ生まれてただ死んだ命があった日に、たくさんの人が楽しみにしていた賑やかな夜があった。
事件から一週間が経って、何事もなかったかのように休日を過ごす家族、夫婦、カップル、友人同士、と思わしき人たちで溢れかえっていた。平日に来ればよかった、と少し後悔した。仏花を片手に1人歩くには浮いてしまう。歩き出してから「どうでもいいか、そんなこと」と思い直し、海辺へ降りていく。
あんな事件の直後によくもまぁ、この海で遊ぶ気になるよな、と侮蔑の念が生まれてくるのを振り払う。人の気配が多いと疲れてしまうので、土日は苦手だなぁと思いながら、一人だけ異星から渡ってきた宇宙人のような気持ちで歩いていく。
こんなことしたって何にもならないのは百も承知だけれど、ただ自己満足のためにやってきた。乳児が焼かれていた場所がどこだかもわからない。なんとなくの検討で、何が焼かれていたか分からない焼け跡に、とりあえず花を添える。嵐の後だったので、辺りはゴミと流木が大量に撒き散らされている。ああ、ずっと昔から見てきた千本浜だ。
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そのまま生きていた方がもっと苦しかったかもよ。生きなくて良かったのは幸運かもしれない。人格を否定されて、殴られて蹴られて、尊厳もないままに年だけ重ねなければならなかったかもしれない。逆に、大事なもの、大切な人を見つけられた幸せな人生もあったかもしれない。そんなことは誰にもわからない。神さまも知らない。ここに命があったことだけが確かだ。
身近な友だちで出産を経験した人たちは皆、子宮に病を抱えていたり、不妊治療の末に念願叶って新しい命を迎えていたりしたのを見ていたから、こうやって命が簡単に捨てられてしまうこと、子どもという弱い存在が無惨に暴力的に犠牲になるのを見るたびに、なぜ、といちいち考えてしまう。なぜ、も何も責任も誠意もない行為の果てに命が作られてしまって、必要とされなかったから捨てた。それだけのことだと分かっているのに、もう少しなんとかならなかったのか、救いは、希望は、環境は、教育は。果てにはなぜ戦争なんかしてるんだろう、なぜこうも大事なものを取りこぼしていくのだろうと思い至る。
すぐそこで、海や流木にはしゃいでいる子供たちと一体何が違うんだろう。考えてもどうしようもないことを考えるのは優しさではない。繊細さでもない。今日も明日も、自分はまた、考えてもどうしようもないことを考える。考えた分だけ、狂った分だけ、その先に答えが見つかることを知っているからだ。残された自分の命の扱いについて考える。