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誰も読まれないものを書く地獄由来のモチベーション

noteやXで、山ほどいいねや、インプレッションの高い人々をみる。仕事において有益であったり、話題であったり、面白かったり、と読むだけの価値があったり、価値を感じて読むものばかりだ。

読まれるということはなんと、難しいことだろう。プロットのような短編を書き始めたが、当然のことながらほぼ読んでもらえることはない。

書き続けても無駄ではないかと、継続ヤメの指令があちこち飛び交う。脳内に。

書くことは傷つくことでもある。
書くからには読んで欲しい。読んでもらうためにどうするかを考えて、引きのあるバナーやタイトルにすればいいんだが、読めばわかる的な上からの大御所視座で挑みがちだ。

読めばわかるなんて言ってのは
食べればわかると同じなのであり、
付き合えばわかる、
1発ヤレばわかる、
ぐらいの乱暴さを秘めている。

読んでもらうことはお試しからはほど遠く、
それは、YouTubeで自作の曲を聴いてもらうこと
よりも難しい。

なぜなら、読み手に受け身の瞬間をひとときたりとも与えないからだ。

さぁ、読め。そのセンテンスとセンテンスには文脈が埋め込めていて、行間には筆者の溢れる想いが込められているのだ!

なんてものは、読まれないし、読みたくない。

書くということは、歌と同じく、誰がということが大切で、そういう意味ではラーメン屋さんよりもハードルは高い。

ラーメン屋さんはリピートと口コミで広げるビジネスモデルだけど、アマ作家・いわゆる小説もどきを書いてるものには最初のひと口が難しく、リピートどころではない。

いくら書いても、お金はかからない。
この世界には文字が溢れている。
使い捨てられていく言葉たちは、
誰にもみられることなく消えていく。

それでも、書く。
きっと、いつか、誰かが読んでくれるから
書くわけではない。

俺って面白いな。と俺を俺が俺なりに俺らしく評価するために書く。
それって、未来の自分に、友達になろうよと手紙を書いてるみたいだ。

誰も読まれない、読まれなくて良いなんて思ってない。できれば読んで欲しい。わかって欲しい、わかりたい、そう思うことをやめない限り、書くのだ!と、未来の自分に送ろう。

きっと、未来の自分は、ぜひ今度、俺が書いた短編も読んでよと言うだろう。

もちろん読むよ、と伝えるだろう。

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