パンとサーカスと、自転車に乗って【12】
第十二話・写真の見知らぬ女、と火葬場
杉浦杏子が亡くなった報せは元勤め先の清掃会社にも届いていた。退職した人間の葬儀に参列することもない、と社長は弔電も弔花もしないと専務でもある妻に言った。陽子はパート中に社員から杉浦の葬儀場を聞きつけた。ちょうど夜学が休みの日、夕方五時から火葬だった。杉浦の葬儀は、市営の火葬場でただ火葬するだけの直葬と言う形で行われた。火葬場に着くと、葬儀会社の担当者が親族かと尋ねたが、陽子は友人だと言った。控室に通されると、すらっとした若い男が座っていた。
「このたびは、ご愁傷様です。私、同じ会社で働いていた吉田というものです」
陽子はとっさに偽名を使った。
「母が生前はお世話になりました。私は大辻誠と言います。母とは十年前に離れ離れになりまして。いわゆる親が離婚しまして」
誠はつらつらと初対面の陽子に話し始めた。
「母は離婚後生活保護を受けていたのですが、不正受給といいますか、働きながら受給していたようで。市役所の生活保護担当とさっきもひと悶着あったんです。なので…」
誰も来ないだろうと思っていた母の葬儀。どこからか聞きつけて友人が来たことに、誠は喜んでいるのだ、と陽子は邪推した。が、誠の不安げな表情を見て陽子は察した。同じ会社で〈働いていた〉なんてことは口に出さないで欲しいということだと理解した。
「近所の友人ということにしておきます。万一聞かれたら」
陽子は広い控室に誠と離れて座っていた。
「ありがとうございます」
誠はそれだけ言って、死亡届の控えをじっと見つめていた。
「あの…母は殺されたんですよね。なんで殺されたか何か知っていることありませんか?」
誠の問いは切実に感じた。杉浦には友人らしい人はいない。仕事中は自己中心的でどこか嫌な人ではあったが、殺されるようなことをしているわけでも…ある。咲江を訴えて、会社を辞めたと聞いたのを思い出した。
秀一や咲江、正美のことに何かつながるかもしれない。【咲江を訴えたこと】は大切なカードだ。正直、陽子自身が知っていることはこの断片的な上っ面の情報しかない。
「お母さん、お金そんなに必要だったのかしらね。パート先では、けっこうシフトも入っていたし。ある程度ベテランさんだったから。あ、私も母一人で息子を育てたんですけど、清掃一本でなんとかやれましたから。生活保護を不正受給なんてしなくても、独り身なら十分にやっていけると思うんですよね」
陽子は咲江への訴訟の件を伏せながら言った。
「司法解剖も終わって、母の家で遺品整理をしてたんです。通帳なんかも出てきましたが、ほとんど残金がなくて。いつもカツカツだったみたいで。水道は無料だったみたいですが、電気とガス、携帯は滞納しがちだったみたいで」
やはり杉浦は咲江に搾取されていたのだと陽子は確信を強めた。だが訴訟?訴訟にはお金が必要だ。訴訟したと本人が言って辞めるだろうか?それなら、咲江が?敢えて訴訟を原因に辞めたと言う?陽子は杉浦が咲江を訴訟したというカードを切るには、現実味が不足していると感じ始めた。
「部屋に知らない人の写真があって、気味わるいんですけど、持ってきました。警察に押収されると、被害者の母が裏返って加害者になって追われるんじゃないかって。もう死んだんだし、殺されたんだし、そっとしておいてほしいって思って」
誠の精神状態はやはり不安定だと陽子にすぐわかった。誠が葬儀担当者に呼ばれて控室を出た隙に、誠のバッグに仕舞われた“見知らぬ女の写真”をスマホで撮影した。何かの手がかりになるかもしれない。刑事や探偵でもなった気でいるのかと翔太に怒られそうだが、咲江を覆っている得体の知れない何かに近づけるかもしれないと思った。陽子は恐怖心よりも好奇心の方が先走っていた。
定刻通り杉浦の火葬が始まり、棺に最後のお別れをと葬儀担当者がマニュアル通りに言った。愛想のない新人の若い女性だった。杉浦はバイクで轢かれた際に、転倒し腰椎を骨折した。同時に頭部を地面に打ち付けた。傷はほとんどなかったが、即死だったという。轢いた犯人は近所のコンビニと向かいにある学習塾の防犯カメラにしっかりと捉えられていた。
フルフェイスでナンバーも隠されていたが、向かいから来る車のドラレコに映っていた。防犯カメラ、対向車のドラレコから車種が割り出され、あとは数珠繋ぎの要領で逃走経路に従って防犯カメラを追跡すれば逮捕は容易だった。だが、警察が踏み込んだ時には、バイクの持ち主である一ツ橋は自殺していた。ここまでは、マスコミでも報道されていることで、陽子も誠も知っている。何なら、近隣のゴシップ好きな人間ならみんな知っているレベルの情報だ。
一ツ橋要は三十八歳、無職と報じられていた。住まいは古い平屋の木造アパート。駐車場には軽自動車が雑然と停められていた。その中に、ライトが破損したバイクが停まっていたらしい。ネットの情報とは恐ろしい、一ツ橋要で検索すればこの程度の情報にまではたどり着ける。だが当然のことながら、咲江と一ツ橋をつなぐ情報はどこにも出てこなかった。杉浦の火葬には一時間近くかかるということだった。陽子は誠と気まずい時間を過ごすのもと思い、備え付けのカフェコーナーで缶コーヒーを飲みながら咲江につながる何かがないか、スマホで調べていた。
杉浦の火葬が終わり、喉ぼとけや大腿骨などのお骨の解説を新人葬儀担当者から受けていた。陽子ほどになれば、火葬場に立ち会う機会もそれなりにある。この流れだと自分と誠がお骨拾いをすることになるんだと予想できた。ひとつのお骨を両側から箸でつまんで、骨壺に入れると言う作業、幼い時に離れ離れになったとはいえ実母、誠の手は震えていた。翔太も自分の骨を拾う時にはこんなに震えるのかなと陽子は感傷的になった。
偽名を使っている以上陽子は、連絡先を交換することもなく、呼ばれたタクシーに乗って誠に礼をして葬儀場を去った。誠がずっと頭を下げている姿をタクシーのバックミラー越しに陽子は見ていた。
翌日、パート先の清掃会社社長の室田が騒いでいた。現場に直行しているため、陽子はその様子を社員から聞かされた。室田は杉浦の葬儀に行ったのは誰だ?と探していたようだった。まるで何かの犯人を捜すように。
杉浦の息子を名乗る男から会社に電話があったらしい。昨日葬儀に参列してくれた、吉田さんに話があるということだった。社長の追及は厳しく、消去法で“葬儀に参列した犯人”を捜していた。陽子だと突き止めるのも時間の問題だった、杉浦も咲江も辞めた今、人手不足だから辞めさせられることはないとたかをくくった陽子は、昼休みに室田に電話をした。室田からの言葉は意外だった。
「あんたか、中田さんだったか。いいかよく聞くんだ。杉浦さんはね、ウチに来るときに身辺調査したんだ。彼女は、前科者でね。これは言っちゃいけないけど、言わなきゃなんない。アンタを護るためだ。彼女に息子なんていないよ。結婚もしていない。彼女は、不倫相手を刺し殺して服役していたんだ」
陽子の頭が真っ白になる。何を言われているのかもよくわからない。
「とにかく、杉浦の息子を名乗る男ってのは、何かヤバいニオイしかしないんだ。私もこんな仕事をしていると、変な嗅覚だけは発達してね。気をつけなさい。だから杉浦の葬儀には行ったらダメだって言ってたんだ…」
顔は見られたが、名前は偽名だ。下の名前は言っていない。芳名帳なんかもなかった。香典は持って行っていない。失礼だと思ったが、香典に住所も名前も書くのが嫌だったからだ。勘が働いた、と陽子は少し自画自賛した。あの若い男、大辻誠と名乗った。相手も偽名だ。杉浦の身辺を探るもの?つまり、杉浦が訴訟でないにしても咲江をゆすっていたかなにか?そのゆすりのネタを探していた?
陽子はスマホの写真フォルダを見た。誠と名乗る男が不用意に見せたあの“見知らぬ女”の写真。あれは、私の反応を見るためか?そして、私が盗み撮りできるようにわざと席を外した。考えすぎかとも思ったが、どうにもそう考えると辻褄が合う。あの“見知らぬ女”の正体を先に掴めば、何かがわかるかもしれないと、陽子は考えた。