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起業家だった父

私の父は起業家の人でした。

ド貧乏な家に産まれ、中学を卒業せずにテキ屋のバイトを始めて、太田市(北関東随一の歓楽街)でスナック・キャバクラを始めました。ある程度資金ができるとつぶれたボーリング場を一括で借りて中をパーテーションで仕切り、スナック・キャバクラをやりたくても資金が無くてできない人間たちに区画貸しを始めました。その時代ではそんなレベルの店舗でも客が入ったそうです。これが大いにあたり、不動産の転貸を次々に始め更に資金を貯めました。

1970年ごろ、母と結婚し、母からの強い要望で水商売からは手を引き、足利市に引越しをして喫茶店と飲食店を始めました。 その頃はインベーダーが大変流行っており、喫茶店に2台試しにおいたらそれが大変好評。店舗を拡張、ゲーム機を8台に増やしたところ、近隣市町村から人が押し寄せる程の人気のゲーム喫茶となりました。 飲食店では料亭を始めました。

しかし、1970年台になると日本の高度成長は終わり、経済と個人消費が急激に落ち込みました。単価の高い料亭ビジネスなどは非常に厳しい市況となり、父も破産にはならずとも、借金を背負って店を畳むことになりました。借金の総額は3000万、今の貨幣価値に直すと1億5000万ほどで、普通に考えればその借金額から人生を立て直すのは相当難しい金額です。

その後は、母に経営を任せていたゲーム喫茶の利益から借金を返済していましたが、飲食店の夢を諦められず銀行に融資の相談行脚を実行。地銀にはすべて門前払いされるが、唯一、桐生から足利に進出したばかりの桐生信用金庫だけが相談に乗ってくれ、借金の返済をしながら、更に毎月10万円の定期を半年やってくれたら事業融資しますという約束をしてくれたそうです。

約束を無事果たし、事業融資も実行してもらい、ラーメン屋とうどん屋を隣並びで開業。このうち、うどん屋は今でいう丸亀製麺のやり方(うどんを注文して、自分で食べたい天ぷらを取り会計する。ちなみに納豆と卵の無料サービスもやっていたそうです。)で経営をしていましたが、時代にそぐわず赤字が続いたそうです。(これについて語るとき、父は時代の先取をしすぎだといつも言いますが、私は「時代にあってないことを先にやっても意味がなくない?全然すごくないよ。」といつも反論していますw)

一方で、ラーメン屋は大変な人気でした。ラーメン屋でありながら、BOX席を多めに配置し焼肉も提供するという特殊な事業形態、これが当たりました。当時は個人の焼き肉屋というのはほとんどありませんでした。これはなぜかというと、チェーン店レベルでなければ上等な肉を仕入れてくるのがとても難しい時代だったからだそうです。しかし、ずっと水商売・飲食をやってきて培われた父の人脈を使って良心的な肉問屋とのつながりを開拓することで質の良い焼肉用の肉を確保。安価な値段で焼肉を提供し、締めにラーメンも食べられるというやり方はめちゃくちゃ当たりました。(当たりすぎて、父の真似をする人が続出しましたが、お肉の仕入れの問題が課題で上手くいかない人が多かったようです。)

更に、丁度時代はバブルの好景気にさしかかり、足利市でも水商売の店が大量に開店。父のラーメン屋はそのころにしては大変珍しく朝の5時まで営業しており、スナック・キャバクラ帰りのお客さんが大量にやってきてくれました。深夜だというのに焼肉もお酒も飛ぶように売れ、勢いに乗って2店舗目、3店舗目を開店。父のビジネスは最盛期を迎えます。

借金もすべて返済し、それ以上にとんでもなく儲かり、そしてこのころは丁度私が産まれた時期でもあり、商売人としての父が最も幸福な時期だったことが推測できます。

長くなったのでpart2に続くゾイ

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