【自動車整備工場】櫻井忍さん・裕希さん
有限会社櫻井自動車商会
代表取締役 櫻井忍さん
メカニック 櫻井裕希さん
父と息子が受け継ぐ老舗
一部上場企業から個人事業主まで日本に存在する企業のうち99・7が「中小企業」と言われている。
そのうち、どれだけの企業が生き残りをかけて日々戦っているのか。
大手信用調査会社の調査によると「10年後の生存率は約70%、20年後に約52%」なのだそうだ。
誰もが耳にしたことのある大企業を含めても、20年後には約半分しか生き残れない。
ベンチャー企業ともなれば、5年後で15%、10年後で6%だから、相当厳しいと言える。
その中でも、しっかりと根を下ろし、厳しい逆風に何十年も耐えながら成長を遂げる企業もある。
塩竃市の自動車整備会社、櫻井自動車商会もそのひとつ。
創業70年の実績をもつ会社の社長、そして次期社長に話を伺った。
―― 櫻井自動車商会さんは結構長くお仕事をされていると思うのですが、どのくらいになるのでしょうか。
創業が昭和12年(=1937年)で、その時は(塩釜の)北浜で自転車屋としてスタートしました。
―― 85年ですか!すごいですね(※昭和12年の主な出来事:パリ万博開催。巨人の沢村栄治が最優秀選手賞を獲得。ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン、加山雄三が誕生。戦艦大和の起工)。
北浜からこちらに移転して法人格に改組したのが昭和43年(=1968年)ですから、会社組織になってからも50年以上が過ぎています。
―― 日本のモーターライゼーション黎明期、マイカーブーム、すべてを見ているわけですね。創業当初はお父様…よりもさらに上の方ですよね?
そうですね祖父が創業者、二代目、つまり先代社長が引き継いで、その子供が全員女性だったんですよ。
―― 櫻井社長はお婿さん…ですか?
はい。そして隣にいるのが息子です。
よろしくお願いします。
―― なるほど、櫻井社長はこちらで働いていて社長のお嬢さんに見初められた、ということですか?
ところが違うんです。もともとは仙台の東北セミコンダクタ(アメリカのモトローラ社と東芝による合弁会社。半導体製造業。2011年に工場が閉鎖)で製造ラインに入っていましたから、まったく違う仕事でした。
―― 機械が関わるとはいえ、ほぼ無関係、異業種ですよね?
そうですね(笑)。結婚して数年経ってから「そろそろこっちに来ないか」と呼ばれて、ここへやってきました。
―― まったく畑違いの仕事だと思うのですが、いかがでしたか?
難しいことも多いだろうな、というのは分かっていました。ただ、東北セミコンダクタで働いていた時、だいたいの人は自分が決められた場所や仕事から動かなかったのですが、私は沢山の部署に顔を出していまして。社内のレクレーション活動に関わっていたというのもあるのですが、あちこちの部署に行き来していました。
すると仕事の全体像が見えるようになり、どうやったらすべてがうまく回るかが分かってくる。
それが後々、経営者としての役目や仕事に役立った部分もあります。
―― 未経験、しかもお婿さんというしんどさもありますよね?
そうですね。ここに来た当初、塩釜商工会議所の青年会に入るように言われまして。そこで出会った方々は、同族会社の跡取りだったり、私と同じような入り婿だったり、似たような話が多かったんですね。
そこで先輩たちに「そうか、お前も同じだから頑張れ」とか「お前は大変なところでよくやっているよ」とか上手に励まされまして(笑)。
そこでお世話になった方々とは今もお付き合いがありますしね、地域の方々には本当に助けられていると思います。
「異業種」「婿」という徒弟制度や同族経営から少し距離感があったのも、物事を俯瞰して観ることができて良かったのかと思います。
そういう意味では、長男は整備士として入社して、祖父たちの血を受け継いでいるから、私とは違う大変さもあるのかもしれませんね。
―― 今度は裕希さんにお話を聞いてみましょう。家業に関わる、というのは自然なことだったんでしょうか?
そうですね、その辺りは割と抵抗なくやれました。バイクが好きだったというのもありましたし。
―― プレッシャーをはじめ、親子で仕事をするのがイヤだ、とかなかったですか?
それはなかったですね。前によそでアルバイトしていた時は与えられた仕事をこなす、決められた時間だけやればいいと思っていましたが、家業に就いてからは、どうやったら仕事を盛り上げていけるか、いろいろ考えながら取り組んでいます。
―― 家族で仕事していると良いところも沢山ありますけど、家庭と仕事の境界線がなくなってギクシャクする、なんてことも耳にしますが…
それはないですかね…一卵性親子ていうくらい仲が良いといいますか、小さい頃から子供たちにはいろいろなことを伝えてきました。彼にも小さい頃からスノーボードを教えていたら、どんどん上達していって全日本スノーボード選手権にも出場するようになりました。
―― 整備士でもありアスリートでもある…すごいですね。
あとはさっきも言ったように私は婿養子なので、少し距離を置いた感覚で仕事を見ることが出来ます。一方の息子は85年続いている創業者の血を受け継いでいる。
もしかしたら、彼の方が大変というか背負っている感覚は強いのかもしれませんね。
―― 裕希さん、実際のところはどうでしょうか?
そうですね…僕の場合、友人を含め友達や周りで支えてくれる人が沢山います。それはお客さんであったり、一緒に働いてくれている従業員の方たちもですが、そういう人たちのために頑張っていきたい、という気持ちは強いですね。
(やや驚いたように)そうなんだ、そういう風に考えているんだ…初めて聞きました(笑)。
いま、人口もどんどん減ってきているから、どの業界も顧客や売上をつくるのに必死ですよね。
なかには自分たちが食べていける以上のモノを求める大手企業もあったりして、それはそれで仕方ないのかもしれませんけど、出来れば同業他社どうしで助け合ったり、お互いの得意分野を伸ばしていけるような、そういうつながりを強めていきたいですね。
―― 整備士のなり手が減っている、という報道も目にしますが、どういう人が整備士に向いている、どういう素養があれば整備士になれますか?
大手ディーラーなんかは整備士は整備だけに特化していればいいかもしれませんが、民間工場では整備士もお客様と直接触れ合うことが多いです。
お客様もフロントスタッフから言われるより、クルマの医者たる整備士から直接言われる方が信用してくれるんですよね(笑)。
だから、クルマもいじれるし、お客さんとのコミュニケーションが出来る、人好きな性格だと楽しく仕事が出来るんじゃないかと思います。
―― 最後にお二人にとっての「宝物」を教えて下さい。
たくさんのバイクたち…じゃダメでしょうから(笑)…そうですね…やっぱり人のつながりですかね。
私、ぜんぜん仕事を休まないし、休まなくてもOKなんですが(櫻井自動車商会は定休日なし)、それは人と接しているのが好きなんですね。
ふらりと立ち寄ってお茶を飲んでいってくれるお客様もいますし、お土産をわざわざ持ってきてくれる方もいる。
商工会議所で知り合った方々もそうですし、そういう方々とのお付き合いが財産だと思っています。
僕も人間関係ですね。たくさんの人から支えて頂いているので。
あとは年末に子供が産まれるんですけど、これでやっと家族が出来たという実感がわきました。
なので、宝物に「家族」が加わりました。
じゃあスノーボードやバイクもあんまり無理しないで。通勤はバイクなんですけど、見ているとヒヤヒヤするんですよ。
でも、こないだ息子が後ろを走っていたら「こっちこそ見ていてヒヤヒヤした」って言われましたけど。
(笑)。
饒舌だが飄々とした雰囲気の櫻井社長とアスリートらしく熱いハートをもった裕希さん。
真逆のようでも、実は根っこの部分では同じ価値観を持っているように思える。
櫻井社長は60歳を目途に第一線から退き、息子の裕希さんが名実ともに同社を牽引する存在になるという。
「若いうちは失敗もできるから、バトンタッチは早い方がいい、40代50代になってから代替わりしても、なかなか新しいチャレンジは難しい」(櫻井社長:談)
とはいえ、まだしばらくは櫻井社長と裕希さんの「父子鷹」は続いていくだろう。
これからのストーリーが楽しみでならない。
有限会社 桜井自動車商会
〒985-0005 宮城県塩竈市杉の入4丁目2−9
022-366-2323
HP http://www.lotas-sakurai.jp/
Twitter https://twitter.com/lotas_sakurai
記事執筆:竹田知広
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