ポジティブ強迫症に注意-私と孔子とみつを-
一昨日の記事で「事実は変えられないけど解釈は変えられる。だから、幸せ度の上がるポジティブな解釈を選ぶ方がオススメ」という内容を書きました。しかし、これも突き詰めすぎるとまた、心身を壊します。
なるべく一次情報を書いた方がいいと思っているので、また自分の経験談になってしまいますが、私は自分が小児白血病にかかったという事実について、高校生の時に解釈のパラダイムシフトが起こり、幸せ度がグンと上がりました(ここについては「せい」が「おかげ」に変わる時に詳しく書いてます)。
以来「事実は変えられないけど解釈は変えられるんだ」ということを大きな希望と感じ、実践し続けました。何か嫌なことがあるとすぐに「どう考えればこのことも悪くないか?」と考え、ポジティブな解釈を探していました。中学生の頃からよく日記をつけていたので、嫌な感情は日記に吐き出しながら整理して、ポジティブに結論づけてから眠る、みたいなことをよくしていました。「〜という教訓を得たと思おう」みたいなことをすれば大抵のことにはポジティブな解釈ができるもので、私にはポジティブシンキングが呼吸ぐらいに癖づいていき、このスタンスで私は20代前半までうまくやっていました。しかし、ある事件をきっかけに、崩れてしまったのです。
その事件には、どうしてもポジティブな解釈が見つけられませんでした。無理矢理自分に言い聞かせようとしても、しっくりきていないことは自分が一番分かってしまいます。毎日毎日長文の日記を書きました。人に相談したり、本を読んだりもしたし、身の回りで何かが起こる度にその事件をポジティブに解釈するヒントを探していました。しかし、そのような解釈は一向に見つけられなかったのです。
こんなことをし続けているうちに私の頭は、どんどんこの事件に囚われるようになっていきました。常にこのことを考えてしまうようになり、仕事にもプライベートにも、睡眠にすら支障を来すようになってきました。すると今度は私は「この事件のことを考えちゃダメだ!」と頭で考えるようになったのですが、そう考えれば考えるほど、そのことを考えてしまったんですね。
私のそれまでの経験では、どんな悩み事も2, 3ヶ月もすれば入れ替わるような感覚だったのですが、何年もこの嫌な事件のことを考え続けてしまったせいで、嫌な記憶が強化されてしまったんですね。考えるなと思えば思うほど、何を見てもそのことを連想してしまうようになりました。そして、頭からその事件のことを振り払うために、1日の大半の時間を奪われるようになってしまいました。強迫性障害用語で言う「強迫行為」というやつですね。
事件から4年程経った頃、症状は仕事にもプライベートにも大きな支障を来たしていました。私は完全に自分が異常者になってしまったと思い、途方に暮れていたのですが、ひょんなことからこの世には「強迫性障害」という病気があることを知り、調べるうちに自分はこれなんだと確信しました。既に体系化されている病気であることを知ってそれだけでもだいぶほっとしたのですが、だからといって良くなったりはしない程、症状は既にかなり悪くなってしまっていました。更に3年程かけて様々な信頼できる人に助けを求め、助けられて心が決まり、ようやく精神科に足を運べたのが今から約1年前。薬の服用と定期的な診察で、症状がだいぶ軽くなり、毎日noteを更新できるまでになり、本当に良かったです。しかし、この間に失ったものや機会は大きいです。
ポジティブシンキングは、基本的にはその人の人間関係や人生を豊かにするものだと思います。しかし「ポジティブに捉えなくてはならない」までいってしまうと、逆にそれに苦しめられてしまうんですね。この「ポジティブでなくてはならない」と考えてしまっている状態を、私は勝手に「ポジティブ強迫症」と名付けました笑
あんまり無理にポジティブに考える必要はなくて、「ああ、むかつくなあ」「悔しいなあ」「もやもやする感情があるなあ」等と、ただ感じておいてもいいんですよね^ ^ 瞑想って確かそういう考え方だったような。
何事も、やりすぎは良くないみたいです。「過ぎたるは及ばざるが如し」の言葉の通りですね。かの孔子も、人生の終盤に熱心に説いていたのは「中庸」という考えだったと聞きます。そういえば、実家の日めくりカレンダーにも「ちょうどいいあんばいが一番いい みつを」と書いてありました笑
月並な結論ですが、こういった先人達の言葉は深い真理をついてるんだなあと改めて思いました。
皆さんも気をつけてくださいね。
それでは、今回も読んでくださってありがとうございました!