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それでも生きる(10:別れ)
2002年2月。
右手を失った事故から半年が経ったタイミングで、その出来事は突然やってきた。
スーパーマーケットの仕事を終えた後、午後7時くらいに、友人の誕生日を祝う会が、その友人の家で行われていたので、自分もその会に参加をした。
高校時代からの同級生の友人で、その友人は誕生日を迎えて二十歳になった。
飲酒が可能になるという事で、友人の家には、お酒やケーキなどが用意されていた。
四人の集まりだったが、自分以外の三人は大学に進学をしており、スーパーマーケットの仕事で休みが不定期になっていた自分は、なかなか皆に会う機会がなかったので、久しぶりに集まって会えるのが嬉しかった。
午後9時頃、携帯電話に兄から電話が掛かってきた。
家で母が倒れており、救急車で病院に搬送をされたが、意識がなく非常に厳しい状態だという電話だった。
楽しい時間が突然引き裂かれた。
友人達に状況を伝えて、友人の自宅を後にした。
友人の家から出て少し走ると、すぐに車通りが多い道に出るので、その道でタクシーをつかまえて、病院に向かった。
タクシーに乗って病院に着くまでは15分程度だったが、その時間がとても長く感じた。
緊急外来用の入口から病院に入り、応急処置室に入っていくと、母がベッドに横たわっており、兄がそのベッドの近くで椅子に座っていた。
母の体は、大きく膨らんでいた。
後から分かるのだが、人は亡くなって腐敗が始まると、体の内側でガスを発するそうで、そのガスによって、体が膨らんでいる状態だった。
兄から何も聞かなくても、医師が治療を施していない事から、助からない状況なのは明らかで、医師が死亡という宣告をしていないだけなのだと察した。
そして、今、自分が病院に到着した事で、家族が揃った形となり、医師から、母の死亡の宣告が行われた。
最初に頭に浮かんだ考えは、最低の考えだった。
「これで、楽になるのか」
今まで、仕事中に母が倒れたという連絡があって、病院に駆け付けた事が何度もあり、その度に入院の手続きをしたり、治療費にお金がかかったり、在宅時にはオムツを取り替えたり、ひっくり返った体を引き起こしたり、生活のリズムを乱されるような出来事が多々あり、肉体的にも精神的にも、負担は大きかった。
その負担から解放されて楽になるのか、というのが、母の死で最初に思い浮かんだ考えだった。
悲しい感情は湧き上がってこなかった。
涙も出なかった。
自分が何かに抗って戦い続けてきた日々。
その日々が突然終わった事に、ただ、愕然としていた。
何も考えられなかった。
その後、病院での手続きや、葬儀の業者とのやり取りは、すべて兄が担ってくれた。
自宅に戻ったのが日付が変わる0時くらいだったと思うが、それから警察の現場検証が行われた。
突然死の場合は、事件性がないかを確認するため現場検証を行うとの事で、警察の人が兄に、30分程度、母が倒れていた場所や状況を確認していた。
翌朝になると、遺品整理や葬儀の準備など、次から次にやる事があり、あっという間に時間が過ぎていった。
葬儀には、友人や勤務先で働く仕事仲間が参列してくれた。
その中には、誕生日会の時に一緒にいた友人もいた。
友人の誕生日と母の命日が同じ日になってしまい、これから毎年、その日が訪れるたびに、おめでたい日であり、悲しい日でもあるという複雑な感情が生まれるのだろうなと思った。
後日、警察の現場検証の結果が出て、母がどのように亡くなったのかという結論を、このように説明された。
母が亡くなった日、午前6時から7時の間に、自分と兄は仕事に向かうため、家を出た。
午前9時頃、母は睡眠薬の効果が持続していたのか、あるいは糖尿病により足に力が入らなかったのか、家で転倒し、おでこを強く打って、土下座のような姿勢で気絶した。
その姿勢で長時間が経過した事により、心臓に負担がかかった。
午後8時30分くらいに、兄が家に帰ってきた時には、もう助からない状況だった。
以上が、検証の結果による見立てだった。
その話を聞いて、自分は思った。
母はおでこを打って気絶した後、
「助けを呼べなかったのか」
それとも、
「助けを呼ばなかったのか」
と。
母は、「もう子供に迷惑を掛けたくない。だから死にたい」と、言っていた。
もしかして、母は、「本当は助けを呼ぶ事ができたのに、諦めたのではないか」、そんな疑問が、心をざわつかせた。
もし、本当に母が、「助けを呼ばない」という決断をしていたとしなならば、
「俺がもっと希望が持てる言葉をかけていれば、こんな事にならなかったのではないか」
「そもそも、自分が事故に合っていなければ、母は自分自身を責める事はなかったのではないか」
という思いが、心に広がっていった。
本当のところは分からない。
母はおでこを打って、ずっと気を失ったままで、助けを呼べなかったのかもしれない。
ただ、確かなのは、
「自分にもっとできた事があったから、こんな思いが浮かんでくるのだ」
という事。
母に、「自分は右腕がない人生を楽しいと思っている」と、もっと言ってあげればよかった。
「お母さん自身の人生も、これからもっと楽しい事が待っている」と、励ませばよかった。
「お母さんの子供として生まれてこられて幸せなんだよ」と、伝えてあげればよかった。
右腕を失った時に、「当たり前にあると思っていたものが、実は当たり前ではない」と実感したはずだったのに、その経験を活かせていなかった。
どんなに悔やんでも、過ぎた時間は戻って来ない。
「何を学んで、どう活かして生きていくべきなのか」
そんな自問自答を繰り返しながら、母がいない世界がだんだん日常になっていった。