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誰でも自信満々になれる方法

自分に自信がなく、自己嫌悪心が強く、自己肯定ができていないのに幸せな人というのはいないと思います。逆に自信満々で自分が大好きで自己肯定できているのに不幸という人も想像ができません。つまり自信は幸せに必要不可欠な要素であり、自信=幸せとも言えるでしょう。

それなのに僕は今までどうすれば自信を持てるようになるかを正確に教えてくれる人に出会ったことがありません。逆に競争原理の中で学校でも社会でもお互いに自尊心を下げ合う方法ばかり教えられてきた気がします。まぁ現代社会の価値観は「適者生存」ですから、人が自信を奪い合い、他人の欠点や過ちを責めて引きずり降ろすことで自分の自尊心を守って生き延びようとするのは当然なのでしょう。僕が鬱の頃はまるで世界が自分の自尊心を失わせるために存在しているかのように感じていました。鬱が完全に治ってみてわかることですが、鬱の本質は自尊心の病気であり、社会が病んでいるから個人も病んでいるのです。

僕は創造主から直接教えてもらって、ごく短期間で揺るぎのない自信を手に入れました。それが本物かどうかはこの記事を最後まで読めばきっとわかります。長文にはなりますが、幸せになるためには絶対必要なことなので、何とか最後までついてきて下さいね。例えあなたが今どれだけ自信がない人だろうと必ず自信満々にしてみせますから。こうしていくら自分でハードルを上げても大丈夫なんです。めちゃくちゃ自信あるので(笑)

以前の僕は大きな勘違いをしていました。自信とは能力を伸ばした先で手に入れられるトロフィー(獲得物)のようなものだと。しかし能力の高低は相対的なものであり、他人と比べることでしか自分の能力の高さは実感できません。だから能力を自信の根拠としてしまうと、自信をつけるためには自己の能力を伸ばしてそれを他人に示し、評価を積み上げ続けなければならなくなります。そして必然的に他者評価に依存しなければならなくなるのです。

しかし今の社会でそこはみんな同じですから、何とかして他人より優位を示そうとしてしまい、無意識に自分より劣った人を求め、劣っている理由を探し、見下したり責めたりして他人の自信を奪おうとしてしまいます。そして他人の不幸は蜜の味という感じの嫌な人間になります。いじめや差別の本質もここにあるから、子供から大人までいじめや差別の問題はなくならないのでしょう。お互い鎬を削りあって成長するのは良いのですけど、通常は醜く無駄な争いが起きてしまうのです。

そして自分より能力の高い人と出会う度に自信を失い、失敗したりする度に「やっぱり自分はダメだ」と落ち込むことになります。そうやって自信を失って心が弱くなると、ちょっとしたことでもバカにされていると勘違いしてすぐ本気で傷ついて怒るようになります。また他人の長所や成功のアピール・承認欲求が(お互い様なのに)ウザくなり、いがみ合ってしまいます。そうして人間関係が悪化して仕事もプライベートもうまくいかなくなり、更に自信を失うことになります。

しかも歳をとれば相対的に能力は下がりますから、過去の自分と比べても落ち込むようになります。そして仕事を引退する年齢になると、自信の根拠としていたお金を稼ぐ能力を失い、自尊心をどう保てば良いのかわからなくなります。それでもなお自分の価値を他人に示そうとして過去の実績を自慢し、その成功体験を絶対化して他人に色々口うるさく上から目線で説教するようになり、ますます人から嫌われて自尊心を下げることになります。

人は自分の能力に自信がなくなると「正しさ」を価値としてしまい、独善的に何にでも文句をつけて批判して自分を正しく偉く見せるようになるのです。正しさに能力は要りませんからね。「自分は正しい=価値がある」という安易な自己防衛方法を身に着けると、必然的に批判対象が常に必要になり、いつも誰かの欠点や過ちを見つけては批判ばかりするようになります。それは自尊心の病気なのです。だから声高に正義を叫ぶ人たちの顔は病的なのでしょう。そうやって偉そうに何かを批判していると自信満々に見えたりしますが、それは虚勢でしかなく、必ず人から嫌われて人間関係で自信を失います。そうして自己嫌悪に陥り、孤独で不幸になっていくのです。

そうなるともう自分の家族にさえも嫌われ、寂しいのに傷つきたくないために自ら人を遠ざけ、他者評価に依存しているのに他者から全く承認されずに精神不安定になり、今まで稼いだお金の力だけを信じてしがみつくしかなくなります。しかし周囲から愛されていない人がいくらお金を持っていても、介護が必要になったら「お金だけ残して早く死んで欲しい」と思われるのは自明です。これではまるで価値が人間にではなくお金にあるかのようです。

お金を稼ぐために嫌なことを我慢して働いて嫌な人間になり、人を嫌って人から嫌われ、老後はお金にしがみついて嫌なこと(医療・介護)を人に押し付けなければならないという人生は本当に地獄だと思いますが、実際今の社会では多くの人がこういう未来に向かって生きているような気がします。

若い盛り・働き盛り・モテ盛りで周囲にもてはやされ調子に乗っている時の「能力(他者評価)を根拠とした自信」というのは躁鬱病の躁状態のようなもので、かえって落ち込む時の落差を大きくしてしまうのです。どれだけ能力のある成功者でも能力を自信の根拠とする限り、いつかは自信を失って不幸になるのは自明です。だから自分の能力を根拠にして今自信満々な人を見ても、自信を失って落ち込んだり羨んで引きずり降ろそうとしたりする必要は全くないのです。それは一過性の仮初めの自信に過ぎませんから。

みんなが人の能力に価値があると思って自信の根拠としてしまうのは、この世界が拝金主義になっているからです。お金を稼ぐ能力のない人は存在価値を否定されるからです。適者生存の競争社会で、合わせられない人は排除されるからです。お金がないと生きていけない仕組みの中では、すべての価値がお金で換算され、まるでお金が神様みたいになっているのです。エゴ(我欲と保身)で人から嫌われてでもお金を稼いで貯めこもうとするのですから、愛を失うのは必然なのです(愛とエゴは対極にある概念です)。だから僕らみんなが幸せになるためには、拝金主義の価値観を変えなければいけません。この辺りの話は「人の価値とは?」に詳しく書きました。

結局、能力の上に自信を築こうとすることが人の不幸の元凶なんです。では我々は何を自信の根拠にすればいいのでしょうか?僕はよく成功者が言うように「根拠のない自信を持とう」なんて無茶なことを言うつもりはありません。そんなことが簡単にできたら誰も鬱になんかなりません。

僕が自信満々になったきっかけは創造主の導きによるものです。長年精神を病んで自分に全く自信のなかった僕が、鬱が治り創造主の声を直に聞くようになって最初に言われたことは「この世界の全員を一人の例外もなく救いなさい」ということでした。鬱で10年以上ほとんど仕事もしないで引き籠って寝てばかりで自己嫌悪MAXだった自分にそんなことは絶対無理だと思って何度も断りましたが、断る権限は与えられていませんでした。

とりあえず僕自身が嫌っている人を僕が救いたくならないことは自明ですから、まず出会う人全員を例外なく好きになろうと覚悟を決めました。そして「嫌いな人ゼロ作戦」を実行に移すことにしたのです。

それでどんなに嫌なことを言われても全てを善意・愛で解釈するようになりました。例えば悪口もこちらに改善して欲しいから言うのだと思って感謝しました。バカにされてもお茶目な僕をネタにしてイジって一緒に楽しくなりたいのだと思って一緒に笑いました。

鬱の頃の僕は自分自身も含めて人間そのものが大嫌いで、人生を呪っていました。鬱になると誰でも嫌な奴になり、人から嫌われて避けられ、自らも人を避けて孤独になり、どんどん自己嫌悪に陥って鬱が悪化し、究極は死ぬしかないと考えてしまいます。それを実体験として知っているので、僕の方から嫌な人を避けていたら世界中の人を一人の例外もなく救うなんてとてもできないと思ったのです。

創造主は人生が成長の物語なのだと教えてくれました。悪役がいなければ成長の物語は成立しません。嫌なことを言う人は主人公である僕の物語に出演してくれて、わざわざ悪役を買ってくれて、自分の物語を一緒に作ってくれる大事な共演者だと思い、僕は人の出会いに例外なく心から感謝するようになったのです。本当はその人たちだって人から愛されたいに違いないのに、敢えて嫌われ役をやってくれているのだと。この物語に悪役はいても悪人はいないのだと。人生のシナリオは主人公たる自分が決めるものですから、自分に嫌がらせをしてくる人も実は良い人でしたというシナリオを成就させて、みんなを即身成仏に導こうと考えたのです。するとわずか一か月でみるみる人間関係が好転していきました。

殆どの人は「私にも嫌いな人がいるんだから、誰かが私を嫌うのは仕方がない」と無意識に思っています。だから「みんなに好かれるなんてことは絶対に不可能だ」と最初から諦めているのです。そして自分を好きでいてくれる人だけ好きでい続け、自分を嫌う人を嫌うのです。だから必然的に相手の顔色を伺うようになってしまうのです。それでは自分の人生に主体性がなくなり、他人に振り回されるようになっていつまでも自信がつきません。

鬱が治って自信満々になってみて僕が気づいたことは、みんなびっくりするぐらい自信がなくて常に人の顔色を伺っているということです。そして相手の機嫌が悪そうだと「自分のせいかも」と思って不安になるのです。そしてその不安を解消しようとして、無意識に相手の嫌な部分を探すのです。いざ嫌われて傷ついた時にその相手を嫌う自分を正当化できるように予め相手の欠点を探しまくっておいて保険をかけているわけです。「自分が悪いから相手に嫌われたのではなく、相手が悪いから私の方が向こうを嫌っているのだ」と。それをみんなお互いにやってるのです。まさに疑心暗鬼であり、その臆病さが不要な敵を生んでいるのです。

だから僕は人に会ったら顔色を伺うのをやめ、相手が笑顔になるまで笑顔をやめないようにしてみました。これは人間関係改善にとてつもない効果がありました。試しに5秒でいいので人に会ったら無条件で笑顔をキープしてみて下さい。苦手な人が相手だと最初はぎこちなくなるでしょうけども、全く気にしないで下さい。とにかく相手が誰だろうとあなたが主役の人生に出演してくれている共演者ですから、出会いに感謝して心からの笑顔で挨拶し、相手がどんなにネガティブな反応をしようと関係なく、相手が笑顔になるまで無条件で笑顔をキープするのです。それだけで本当にびっくりするぐらい人間関係が改善されます。何をしても勝手に良いように受け取ってもらえてお得です。逆に笑顔がないと相手を疑心暗鬼に陥らせて何でも悪く解釈されてしまって非常に損します。

正直に言うと僕も本気で苦手な人に対して笑顔になるのは今でもかなり努力が要ります。でも人の価値は能力ではなく愛と笑顔なんです。人に例外なく笑顔で接して愛せるよう努力することなんです。

機嫌の悪い相手は100%相手の都合で機嫌が悪いので、あなたが自分のせいのように考える必要は全くありません。自分の機嫌は完全に自分の責任です。だから他人の機嫌を伺うより、自分自身が心から笑顔になれるよう考え方をシフトしなければなりません。笑顔は相手に期待するのではなく常に自分からクリエイトするのです。そしたら出会う人みんなが笑顔になって好かれるようになります。そうすると人と会った時に相手の顔色を伺うという手間がなくなり、相手がこちらをどう思うかをあれこれと考え悩む必要がなくなり、相手の欠点や誤ちを保険として探す必要もなくなり、相手を好きになる解釈方法を探すことに全力を注ぐことができるようになります。そうして人との出会いが嬉しくなれば、努力の笑顔も自然になり本物になっていきます。そんな日々を重ねている人間が周囲から愛されないわけがないのです。

笑顔を幸せの副産物と考えるのではなく、笑顔になることを目的化して、自分も他人も心から笑顔になれるよう考え方も行動も変えて下さい。金を稼ぐためのサービスの笑顔や社会から排除されないための卑屈な作り笑顔ではなく、本物の笑顔が人生のコンパスなのです。

もちろんどうしたってこちらを嫌ってくる人(見るからに波動の低い人・レベルの高い悪役)は完全にゼロにはなりませんが、人生という物語には悪役も必要なんです。あくまでもこちらからは相手を好きでいる覚悟さえあれば、今現在どれだけ相手がこちらを嫌っていようと全く関係ありません。どれだけ攻撃してもあくまでも自分を好きでい続けてくれるような人をずっと嫌いでい続けられる人などいないからです。だいたい他人を傷つけて平気なような人は他人から嫌われていて孤独ですから、一度好かれ始めたら熱烈なサポーターになってくれます。そしてそうなるのはもう時間の問題なのです。だからあくまでも自分が出会った人みんなを例外なく好きでいる覚悟さえ持てば、人から嫌われるのを恐れる必要など微塵もないのです。

僕が人を例外なく好きになる覚悟を持った瞬間、人から好かれる未来・シナリオが生まれ、運命の力が自分をそこへ向けて連れて行ってくれる感じになりました。まさに引き寄せの法則というやつです。

僕は創造主から教えられました。自分に見えている世界は、自分の心が映し出して創り出している世界なのだということを。(詳しくは宇宙の仕組みをご参照下さい)つまり出会った人はみんな自分自身の化身なのです。そうして見ると人間関係が鏡なのは当前と言えます。だから嫌いだった人を好きになることで自分自身の嫌いだった部分を好きになれるのです。

こちらを嫌っている相手も自分自身を嫌っていて内心傷ついているから、その要素をこちらに投影して嫌っているだけなのです。だからどんなに傷つくことを言われても平気で相手に好意を示し続けることで、こちらを好きにさせることができます。そうするとその相手も自分自身の欠点や過ちが気にならなくなり、知らず知らず自信をつけることになるのです。つまり誰も気づかない間に人を救っていることになります。これは大変な功徳なのです。あからさまに他人を救おうとしたって相手のプライドを傷つけてしまって大抵うまくいかないのですから。

とにかく何に対しても悪く受け取らない、愛で解釈するというトレーニングを日々重ねることです。自分の過去を一つ一つ思い出し、出会った全ての人に「成長させてくれてありがとう」と感謝することです。

みんな当たり前の様に嫌な人を避けようとしますが、それは得策ではありません。あくまでも映画監督たる創造主があなたの人生に必要な大切なメッセージを伝えるために最適な俳優を遣わして、敢えて嫌な事を言わせているのですから、もしそれをあなたが避けた場合、その役目をあなたの好きな人が担わなければならなくなります。好きな人に嫌な事を言われるほど傷つくことはないでしょう。そして好きな人さえも嫌いになって避けるようになったら確実に孤独で不幸になります。だから嫌な人に嫌な事を言われたら、心の中で「悪役お疲れ様です」とでもつぶやきながら(笑)感謝して、創造主が何を伝えるためにその人・その言葉に出会わせたのか、愛で解釈しながらその意味を考えて下さい。そして人生という物語を監督目線でトータルで愛して下さい。それが悪いカルマの解消のために一番大事なことでもあります。

自分のレベルが上がってくると自然と嫌な人には出会いにくくなるので、僕は嫌な人に出会ったらドラクエではぐれメタルに会った気分で「ラッキー!」ぐらいに思うようなりました。逃げられないように慎重に攻略すると(好きになり好かれるようになると)経験値が跳ね上がるんですから、自分から逃げるなんてもったいなさ過ぎます。縁は創造主が与えてくれているものなので、自分から無理に追いかける必要はありませんが、ドラクエの魔物と同じで嫌な人から逃げてばかりいたらいつまでもレベルアップできず弱いまま(傷つきやすいまま・自信がないまま)になってしまいます。

「罪と恥の存在意義」にも書きましたが、僕らは誰でもやる可能性のあることでしか罪や恥を感じることができないのです。罪悪感や羞恥心は人間以外の生物にはありません。これは人を芸術として美しくするための仕組みなのです。ただそれはお互いを許し合って愛し合うために与えられているのです。なのに我々はそれを責め合うためだけに使って自分も他人も嫌ってこの世を地獄にしてしまっています。人は他人の罪と恥(欠点と過ち)を許すことで自分の罪や恥(欠点と過ち)を許せるようになるのです。だから鬱抜けのカギは自分と他人を責めるのを同時に止めることです。

結局「こういう人は愛せるけど、こういう人は愛せない」と自らの愛に条件をつけるから、他人を嫌い自分自身も嫌いになるのです。つまり自ら苦しみを生んでいるわけです。だから日光や雨水のごとく愛情は無条件でなければいけません。

ただ、今の段階で無条件に愛せない自分や他人を責めないで下さいね。我々が愛情に条件をつけてしまうのは誰のせいでもなく、今の社会では普通のことなのです。子供は生まれた時には「生まれて来てくれてありがとう」と無条件で愛されていますが、子供からするとその記憶はなく、物心がついた時には自立に向けたトレーニングが始まっていて、気づいたら周囲からあれこれと教育を受けているのです。親はその子が将来困らないようにという愛情ゆえに、良い事をした時に愛情を与え、良くない事をすれば叱ります。でも子供は親が良いと思うことをしないと親から愛されない、つまり愛情には条件があるのが当然だと思い込むのです。人類史上みんながそれを繰り返しているのですから、誰が悪いわけでもありません。そういう基本設定があるからこそ、我々は努力して愛情を無条件化していかなければならないのです。

日本人は特に自業自得・自己責任っていう言葉が好きですが、それはつまり悪い人・正しくない人は自業自得で不幸なので救わなくていいという考えにつながります。だから鬱で自分が悪いせいだ・自業自得だと自責の念を持つようになると、人に助けを求めることができず「価値のない自分が人に迷惑をかけないように」と自殺したりするのです。しかし我々は誰一人自業自得・自己責任で生まれてきたわけではありません。そして欠点もなく過ちも犯さない人間は一人もいませんし、価値のない人間も一人もいないのです。罪と恥(欠点と過ち)は我々が許し合い愛し合うためのマテリアルですから、それを理由に人を嫌っていたら不幸になるのは自明なのです。

人を無条件で愛せるようになるために手っ取り早い方法があります。それは自分が嫌いだと思う人に敢えて好意を伝えてしまうことです。いきなり相手の全てを肯定して好きになる必要はなく、どんなに些細ことでもいいので良い所を探し、良い所が見つからないなら良いと思える「解釈方法」を探してみるのです。共通の知人で仲の良い人にその苦手な人の良い所を聞いてみるのも良いでしょう。好きになれる部分が一か所でも見つかればそれが突破口になります。

もちろん嫌いな人に好きだと言うと気持ち悪くなります。でもその気持ち悪さを解消しようと、脳が勝手に相手を好きな理由を探してくれるのです。そうすることであなたは自分を好きになり、相手からも好かれるでしょう。

ただこれは今現在鬱の人にはハードルが高いかも知れません。でしたらまず一人の時に心の中で相手を褒めてみてみて下さい。そしてできれば声に出して言ってみて下さい。誉め言葉は料理と同じで相手と一緒にいただくものですから、自分と相手の双方の口に合う味付け(表現)で、食べやすいサイズに切り分ける必要があります。それを予めイメージトレーニングでやっておくのです。心から思っていない大げさなお世辞はダメなのです。

まぁそれでも苦手な相手に直接好意を伝えるのは精神的にキツいでしょうし、相手もこちらが苦手に思っているのを敏感に感じて疑心暗鬼になっているでしょうから、こちらが本気で良いと思ったことを褒めても悪意で受け取られて逆効果になる可能性もあります。だからおすすめなのは共通の知人に嫌いだった人への誉め言葉を伝えてみることです。本人に直接言うより逆に効果があったりします。悪口だって本人に直接言うより、陰口が友人から本人に伝わった方が(本音だと思われる分)負の効果は高いので、同じことですね。

肝心なことは心から思わないことには意味がないということです。そもそも鬱の本質は心の声に逆らうことですしね。

僕が鬱末期の頃、久々に無理してパーティーに出かけたら、知人からいきなり「シンヤさんは僕の悪口を言っているって聞きました」と言われて面食らったことがあります。それも2人からほぼ同時にです。意味不明過ぎて「はぁあ?」って感じでした。その頃も僕は普段から人の悪口を言わないように気を付けていましたし、そもそもそれまでの1年ぐらい引きこもりで誰ともほぼ絶縁状態だったので、彼らの悪口を言うどころか思い出す機会すらなかったのです。思い込みだけで勝手に人を「悪口を言う人」に仕立て上げることこそが悪口ではないかと憤慨して当時は彼らを本気で嫌いになりました。

でも今では彼らから「悪口を言わない努力なんて何の意味もない」という貴重な教えをいただいたと思っているので心から感謝しています。相手をあまり良く思っていないというだけで、それが微妙に態度に出て、相手を疑心暗鬼に陥らせ、例え悪口など何も言ってなくても陰で悪口を言っていると確信的に思われるのです。相手は被害妄想で「私が嫌われているのは私が悪いからではなく、誰かが私の陰口を言いふらしているせいだ」と考えて常に犯人探しをしているのですからね。相手が鬱の人なら猶更です。そして実際、あまり良く思ってない人に対しては相手から悪口だと受け取られることを無自覚に言ってしまいまいがちですし、誰かが言うその人の悪口に何気なく相槌を打っただけでも悪口を言いふらしている犯人にされてしまうのです。これは魔女裁判の如く理不尽なのです。だから悪口を言わない努力ではなく悪く思わない努力が必要なのです。

我々は元々一つであり、僕らの意思が一つに合体した宇宙意思というものが存在しています。それが創造主でもあります。僕らはその宇宙意思から常に全部見られているのですから、人知れず人を救うほど宇宙意思から愛されて良いシナリオを掴むのです。善行を他人にアピールする必要など全くありません。逆に隠し事をしても宇宙意思には全部バレています。思ったこと感じたことまで全て筒抜けなんです。僕らの全ては宇宙意思に見られているのですから、「サトラレ」の如く自分の心を誰に見られても大丈夫なようにしてみて下さい。そうすると宇宙意思があなたを応援しやすくなります。欠点や過ちなんかみんなに例外なくありますから、アダムとイブのように罪悪感や羞恥心から創造主を否定して逃げ回る必要などないのです。

僕は例外なく人を好きになることで自分の全てが大好きになりました。他人を嫌う理由がなくなったら、自分自身を嫌う理由もなくなりました。欠点と思えるようなことも徹底して良く解釈し、どんな過ちも「その人なりに事情があってそうなったのだから仕方がない」と許す癖が脳に染み付いたのです。出会う人一人一人を好きになることで、「自分大好き」というパズルのピースが完成していく感じです。

今では出会う人をみんなを好きになって、ドラゴンボールの元気玉みたいにみんなから力をもらえるようになり、どんどん自分のことが大好きになって自信満々になっていきました。本当にパワーが指先からほとばしるように感じられます。ただそれは別に自信をつけようと考えて始めたことではなく「自分と同じように鬱で苦しんでいる人みんなを救いたい」という思いが創造主の意思に通じていたために、創造主から導かれたとしか解釈できません。

「人の価値とは?」で書きましたが、人の価値は存在であり感情なのです。自分自身と出会う人みんなの心を最大価値として宝物のように扱う人が、愛されないわけがないのです。

そうして毎日人から愛される実体験を積んでいけば、その自信は揺るぎないものになっていきます。そうすると高い波動・オーラが出るので、初対面から不思議なほど人に好かれますし、良い縁が引き寄せられるのです。出会う人みんなを例外なく好きになる覚悟を持つと、不思議と本当に悪い人には出会わなくなります。敵がいなくなり、文字通り無敵になるのです。

以前の僕はよく人から「あの人は心を開かない」などと陰口を言われて避けられていましたが、自分ではそんなつもりは全くないので意味がわかりませんでした。心を開くとは、ありのままの自分と他人を受け入れて、隠し事をしたり嘘をついたりしないことです。欠点を隠しながら自信を持とうとしたって仮そめの自信にしかならないのは自明でしょう。自分を良く見せるために悪いところを隠して表面を取り繕っていては、本物の自信など身につく訳がないのです。

例えば僕は頭髪が薄く30歳過ぎには明らかにハゲ始めたのですが、こちらに特別それを隠す意図がなくても、ただ帽子を被るだけで「欠点を隠している・この人は自信がない」と思われ、心を開いてないと思われ、相手に気を使わせ、気疲れさせて自然と避けられていたのです。ハゲ頭を丸出しにすると寒かったり陽に焼けたりケガしやすかったり色々と面倒なのですが、残念ながら世間的に欠点と思われていることは積極的に晒さないとダメなようです。今では余程の事がない限りは帽子を被らずハゲ頭を晒して、ハゲを自分からネタにします。正直言って理不尽だと思いますし面倒臭いのですが、これはもう人間の性(さが)であり配役なので仕方がありません。人は欠点を隠されるとその人を無意識に遠ざけてしまうのです。それは相手を傷つけることで自分が傷つきたくないからです。そして自分自身の欠点を受け入れて愛せずに隠すような人が、こちらの欠点をありのまま受け入れて許し愛してくれるとは思えないからです。そして実際それは本当に正しいのです。

だからまずは自分で、世間的に欠点だと思われる部分を自分で愛せるように認識・解釈の仕方を変えなければなりません。そうすることで全部晒しても愛される自分、誰のことも無条件で愛せる自分が作られていきます。

そうすれば「他人から嫌われたり責められたり笑われたりするのが嫌だ」という自信のなさが心のブレーキにはならなくなり、やりたいことがストレートにできるようになります。いちいち考えなくても無意識に自分らしい選択ができるようになり、どんどん自分自身を好きになってグングン前に進めるようになります。結局、自信に能力も正しさも要らないんです。必要なのは無条件で愛する覚悟だけです。

欠点というのは自分で受け入れて愛せると逆に人を安心させる長所になります。そして例えばあなたが料理が下手な人だったとします。料理音痴なのは味音痴ということであり、つまり他人が作ったものを自分が作ったものより美味しく食べられるということです。何でもすごく美味しそうに心から喜んで感謝しながら食べれる人は、料理が好きで得意な人を幸せにします。そういう意味でも欠点は長所であり、自分の欠点が他人の長所の存在意義を作っているのです。

同じように「片付けが苦手」「体が弱い」「お金稼ぎが下手」などなど、他人の欠点をあなたが補うことであなたの長所が存在意義を持つのです。自分や他人の欠点を責めたり反省や改善を求めることがいかに愚かなことか気づいて下さい。そして他人の欠点を補うことでお金を稼いで自己利益につなげることばかり考えないで下さい。自分の長所を他人に喜んでもらうことで、あなたは存在意義というかけがえのない利益を得ているのですから。現世での損得を考えること自体が不幸の元凶なのです。

それと特に日本人は欠点を卑下するのが謙遜だと勘違いしている人が多いように感じられます。それはただ傷つきたくないがために、他人から傷つくことを言われる前に自分から自分を貶めているだけなのです。その証拠に、相手の謙遜に乗じて「本当にそうですね」などと言えば一生の敵になりますから。自分を卑下して謙遜する人は、自分の価値を下げているだけでなく、同じように欠点を持つ他人を蔑み傷つけて自信を失わせていることに気づいていません。自己を卑下して謙遜するのは他人を卑下するのと同じであり、それを与えてくれた創造主への不平不満ですから、絶対にしてはならないのです。欠点も長所も創造主からいただいたものにはすべて無条件で感謝し愛することです。本物の謙遜とは、自分の努力で手に入れたものでさえも、創造主のお陰・みんなのお陰だと感謝することです。実際、努力できること自体が創造主の与えてくれた才能なのですから、感謝してその恵みを創造主の分身たるみんなと分かち合うのは当然のことなのです。

また大人になっても他人が傷つくようなことを平気で言える無神経な人が結構いますが、それこそが自尊心の病気であり、魂的に幼稚なのです。他人を傷つける言葉は赤ん坊の泣き声と同じようなものなのです。実際それは不平不満を泣き叫んでアピールすれば周囲が気遣ってくれて物事が勝手に自分の思い通りになるという経験の名残りなのですから。だからどんなに傷つくことを言われても「ちょーなのー?おじちゃんのことキラいなんでちゅかー?こまりまちたねー。おじちゃんは〇〇ちゃんのこと大好きなんでちゅけどねー」という感じで心の中で相手を徹底的に子供扱いすることです。そして未熟でかわいい子供だなと心から愛することです。魂の年齢と肉体の年齢は全く無関係ですから、相手がどれだけ年上だろうと(どれだけ能力や社会的地位が高かろうと)全然関係ありません。このように考えるとどれだけ傷つくようなことを言われても屁とも感じなくなくなります。相手が一番傷つけているのはその人自身ですから決して反撃せず、心無く幼い言動を許してより高い次元から愛する優しさが大事です。

自分に都合の良いものだけを愛するのは赤ん坊でも極悪人でもできます。本当の意味で大人になるということは、自分に都合の悪い人や出来事も含めてトータルに愛せるよう努力し成長し続けることなのです。すべての存在が創造主の愛によってできているのですから、無条件ですべてを愛すれば創造主から応援されるのです。

それと特に女性は外見の美しさを最大価値としてしまい、欠点とされがちな身体的特徴や加齢による衰えで傷つく人は多いと思います。綺麗になろうと努力すること自体はとても素晴らしいことなのですが、身体的特徴や加齢を欠点と考えて自分で受け入れられずに不自然なほどに胡麻化して隠そうとすると、前述のように人に避けられてしまうのです。だから自分の欠点を愛することで相手も自分の欠点を愛せるようにするべきなのです。

もし人生が映画であるならば、体は監督である創造主から与えられた衣装・配役のようなもので、監督に与えられた衣装(体)・配役(運命)を他人から悪く言われても、俳優(魂)であるあなたが傷つく必要はないのです。一時的に借りているだけの衣装(体)・配役(運命)を自分自身そのものだと思う自意識・所有意識があるから、それをちょっとネタにされただけで傷つくのでしょう。借り物の衣装(体)・配役(運命)はあなた自身ではなく、あなたの所有物でもありません。ネタにされたら一緒に笑えばいいのです。そして与えられた衣装(体)に合った配役(運命)を楽しみながら演じればいいんです。ファニーフェイスにはファニーフェイスの、40代は40代の、50代は50代の、与えられた衣装に合った配役をただクールに演じればいいのです。俳優は外見・年齢に最適な役を演じるのが一番自然でカッコいいのです。でも決して衣装や配役があなた自身ではありません。そして魂の年齢と肉体の年齢は無関係です。撮影が終了したら脱ぎ捨てる衣装や配役に本質などないのです。我々は魂を成長させるために生まれて来ています。歳をとるほど時間はあっという間に過ぎますし、加齢を苦にする必要など微塵もないのです。みんなが恐れる死の苦痛も幻であり、ほんの一瞬で過ぎ去るものですから。

僕はアヤワスカを日常的に摂取していることもあり、自我・自己同一性なんてものがいかに脆く幻の如きものであるかを実体験として知っています。本当はみんな一つなんです。「宇宙の仕組み」に書いた通り、自我は幻であり、言い換えれば僕らは全員同一人物ということです。それがそれぞれに違う役割を演じているだけなんです。でもみんなが同一の存在だと完全に認識できてしまったら、世界に一人ぼっちで合わせ鏡に映った無数の自分に向かって話しかけているようでつまらなくなります。だからどんな自我どんな個性でもありがたいのです。それは創造主からの贈り物です。自我と個性があるお陰で我々は人を愛することができて、自分をより愛することができるのです。世の中の全員が、自分にはできない貴重な経験を積んでいる貴重な存在なのです。でも本当はすべての人が自分自身なのですから、人を恐れる必要など一切ないのです。

もしわれわれが創造主に愛されていなればこの世に生まれてすらいません。創造主に愛されて生かされていることに気づいて下さい。創造主なく何の意図もなく純粋な確率のみでこの世界や地球や人間が生まれたと考えることは、人間の存在なしに地面からパソコンが突然出現して進化し続けると考えるようなもので、進化論はトンデモ理論なのです。全ては創造主の愛によってできているのであり、すべてに意味と役割があり、偶然に生まれている存在などありえないのです。全ての事故や病気で死ぬ確率を合わせたら我々はとっくに死んでいます。確率で考えれば生まれてすらいません。ちゃんと役割があって「生かされている」ってことに気づいて下さい。まぁどっちみちみんな死ぬ時はみんな死にますし、魂は永遠ですから、死など恐れず覚悟を決めて勇気を持って行きましょう。

心をいつでも誰にでも晒せるようになると、出会った人を安心させるので自然と好かれます。みんな必ず欠点を持つ存在なので、人は欠点を自ら開示されると救われた心地になるのです。笑いの基本もそこにあります。人の欠点や過ちを知った時の安心感から笑いが生まれるのです。それをバカにされて笑われていると解釈して傷ついて怒ってはいけません。一緒に笑うんです。バカにされたら「違う!」と思っても「その通りです!よろしくお願いします!」って言うのが一番簡単に爆笑が取れる「笑いの基本」なんです。お笑い芸人などはそこからさらに被せて人を笑わせるのです。どっちにしろ人は思いたいようにしか思いませんから、相手に何がしかの印象を与えてしまったら、あなたがいくら否定しようと意味はないのです。そして相手の自分に対する印象がどれだけ悪くて間違っていて不満でムカついても、それに乗っかって笑いを取った方が好かれて得なのです。日常会話は裁判じゃないんですから、何が正しいかなんてことより笑顔の方がずっと大事なのです。常に正義より愛を優先させて下さい。

どうか自分や他人の鬱を本来の性格と勘違いしないで下さいね。生まれた時から鬱なんて人はいませんから、絶対大丈夫なんです。ただみんな生まれた時から社会が病んでいるので、本当に精神的に健全な状態というのがどういうものか誰も知らないだけなのです。基本的に病んでる社会の中で病んでない人はいません。嫌な人っていうのは悪霊に憑りつかれて無自覚に鬱になっているだけで、鬱が治ればみんな本当に良い人なんです。どうかみんなが心の中に神仏を持つ存在だということを忘れないで下さい。

どうしても心の中に悪い考えが浮かんで仕方がない人・心をさらけ出せない人にお勧めなのは、南無妙法蓮華経のお題目を唱えることです。別に日蓮系の宗教の信者になる必要はありません。お題目口唱行はとても簡単な修行ですし、一心不乱に唱えれば余計な考えが吹き飛びます。他のマントラでも全然構いませんが、南無妙法蓮華経は本当に心を清浄化して悪いカルマを軽減させ運命を打開するパワーがあるのでお勧めです。

僕の自信の根拠は「能力」ではなく、全ての存在を愛するという「覚悟」です。そして創造主に愛されているという確信です。それは能力を根拠とした自信とは違い、誰でも持つことができて、決して他人に奪われることはありません。

アドラーは人間の悩みは全て人間関係の悩みであると言いました。つまり人間関係の悩みがなくなればすべての悩みがなくなり、揺るぎない自信が身に付くということです。例外なく人を好きになる覚悟を持つと、自分のことが大好きになり、人に愛され、自信満々で幸せになります。アドラーの言う「嫌われる勇気」なんかより「どれだけ嫌われても愛し抜く勇気」の方がずっと大事です。そしてまたアドラーの言うように承認欲求を捨て去るなんていうのは無茶です。承認欲求も愛と同じで人間の根源的な欲求だからです。ただ承認欲求も愛の欲求も人に与える前に求めようとするから得られずに不幸になるのです。それは一切見返りを求めずに自分から無条件に与え続けることで期せずとも得られるものなのです。アドラー他著名な心理学者たちのいかにも気難しそうな不幸ヅラと僕のエビス顔(笑)を見比べるだけでも、どっちの言っていることが神の心に適った真理であるか、あなたにもわかるはずです。

巷には心理術や恋愛術のようなもの「術」が溢れていますが、その本質は「自分が傷つかないよう安全地帯から他人を操作して自己利益に誘導しようとするもの」であり、それを駆使する人は完全にエゴが愛を上回っているのです。そんなくだらないもので例え一時的には自己利益が得られてうまくいっているように思えても、実際は愛を失い不幸に向かっているのです。そういう「術」は相手にバレたら終わりなので本心を隠さざるを得ません。しかし本心を隠して自分も他人も欺きながら本当の自信も幸せも得られるわけがないのです。

万能の解決策は常に無条件の愛です。ここに書いた創造主の教えは術ではなく、エゴを乗り越え心を愛(善意)で満たすものなので、相手に本心がバレた方がむしろうまくいきます。だから安心して心をさらけ出せるようになるのです。自分に正直に生きれるほど幸せなことはありません。逆に自分にも他人にも嘘をついて生きて幸せになれるわけがないのです。

ここまで読んでいただけたら、元メンヘラで天涯孤独で仕事もお金もないホームレスの乞食で独身・恋人なしの中年のハゲたオッサンという欠点と過ちの総合デパートみたいな僕が本当に自信満々であることがご理解いただけたと思います。もしあなたが今すぐ僕と同じ状況になったら絶望して死んでしまうかも知れませんが(笑)僕は常に周囲から愛され助けられて、仕事をせず全くお金がなくても明るく楽しく幸せに暮らしています(そういう修行中です)。

今のあなたが自分をどれだけダメ人間だと思っていようと大丈夫です。むしろ世間的に欠点や失敗と思われるようなことが多いダメ人間が劣等感を乗り越えて自信満々になったら、より自信がなく不幸な人を自信=幸せに導くことができます。それこそまさに菩薩行なのです。

前述した通り、精神病の本質は自尊心の病気であり、自尊心を病んでいる人は本能的に自分の自尊心を上げるために他人を見下したり責めたりして下げようとしてしまいます。しかしすべての存在は一つ(ワンネス)であり、出会った人は自分の鏡(拡大鏡)なのですから、自尊心と他尊心は同時にしか上がらないと気づいて下さい。

気づかれましたか?世界中のみんながこのようにして自信を身に着け、それが連鎖してみんながお互いに自信を与え合ったら、きっと世界は救われるでしょう。どうか人生の主人公(メシア)として目覚めて下さいね。自信にしろお金にしろ価値を奪い合う地獄を終わらせ、見返りを求めず価値を与え合う天国をこの世界に実現しましょう。

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ShinyaSalvador
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