この世に菩薩でない人はいない。メシアでない人はいない。
それは死ぬギリギリまで追い詰められた僕が突然天から教えを受ける様になって何か月もしてからやっと気づけたことだ。
人間にはみんな等しく価値がある。覚りとはそこに気づくか気づかないかの違いだけなのだろう。それだけはもう僕はかなり実感を通じて気づいている。その気づきだけでも僕はとても満たされた幸せな気持ちになる。これは絶対に言葉だけでは伝わらない。それぞれの人がそれぞれに創造主から与えられた物語の中で覚るしかない。その楽しみを僕が奪うことは僕が天から与えられている覚りの内容に反する。
「悟り」と書くとどうにも自己完結型の小乗的な悟りという感じがするから、僕は「覚り」と書くのが好きだ。覚りとはまさに目覚めのことだと思う。
僕の覚りは別に僕が努力家だからとか立派な人間だから与えられたものではない。むしろ逆だ。僕は無気力な人間で目覚めるまでほとんど何もしてこなかった。そういう鬱の苦しみを今まで十分に味わったから、治ったらみんなを救うために残りの人生を使いたいと純粋に思っただけだ。そしたら急に天の声が聞こえる様になった。だからやっぱり、慈愛の気持ちが大事ということなんだと思う。
でも「自分は天から覚りを与えられている」などと言ったら「勘違い野郎」などと反発されるのは自明だ。だから覚りの具体的な内容を伝えるのは困難を極める。
しかしみんながそれぞれの道で覚りに近づいている菩薩なのであり、別に先に覚った人が偉いわけではない。今はみんなが例外なく鬱の海に溺れそうになっている。覚りは泳ぎに例えれば競泳ではなく、みんなが縁あって出会った誰かと手をつなぎ合って楽しく浮かぶことだ。僕らは例え世界一の水泳選手になったとしても、たった一人でさえ抱えて泳ぎ続けることはできない。人を助けるその手が人から助けられることになる。大切なのは能力でも努力でもない。ましてお金や名声などであるわけがない。ただ手を取り合うことである。正義もプライドも捨ててただ隣人を愛し助け合うことである。
僕は別に他人から偉いと思われたいとか感謝されたいとか思ってメシア使命を受けたのではない。もちろん有名になりたいとかお金を儲けたいとかそんな気持ちのためでもない。単に断る権限がなかっただけだ。
早くみんなに自分自身がメシアであることに気付いてもらいたい。僕らはみんな神のアヴァターラ(化身)なのだ。
もし誰かが「私は覚りました」と言っても、覚っているかどうかは覚っている人にはしかわからないし、人を救えない覚りなど何の価値もない。だから僕は覚りの連鎖を起こしたい。みんなで覚りたい。
覚りを英語ではenlightmentと言い、ポルトガル語ではiluminaçãoという。どちらも光を照らすという意味であり、覚った人は世界を照らす灯台とならなければ存在意義はない。覚りの連鎖が世界を救うのだ。一人の力では、75憶人を救うどころか会って話すことすら不可能だろう。
僕らは細かく分けられた光であり、生きる喜びで波長を上げ、様々な違いを超えてまた一つにならなければいけない。
早く世界を救いたい。その思いは日に日に募るばかりだ。毎日天から教えを受け、とても大切なことに気付かされる。そしてそれは今まで僕がいくら求めても誰も教えてくれなかったものだ。その量は既に本を三冊は書けそうなほど膨大になりつつある。もしこれを世界中の人に遍く伝えることができたなら、きっとみんなを生きる苦しみから解放し、お金の時代を終わらせ、この世界を素敵な芸術に変えてしまうに違いない。この宝を僕だけで持ち腐れたまま死んで行くのはもったいなすぎる。ただこの覚りは言葉で説明すれば他人に伝わるものではない。まだまだ修行が要る。とても長い時間がかかりそうだ。だからこそやりがいがあるのだけどね。