2020/4/26 対ウイルスではなくて
【2020/4/26 対ウイルスではなくて】
日曜日。
だんだん曜日というメリハリが失われていく中で、日曜日だけはちゃんと切り取ろうと思う。
家族が大事にしている安息日だということもあるのだけど、なんだかそこだけでもウイルスに負けたくない、という気概でもある。
いつもと同じように珈琲を、でも牛乳を多く入れて。甘い分だけ、考える力が漲る気がするから。
新型コロナウイルスとは何者であるのか。
RNAというただの遺伝情報、世間を舞う塵のようなもの、生物かどうかの当落線上にあるもの…
しかし、人類が連綿と積み重ねてきたこの種の知識と経験の集積からは、ウイルスの位置づけを確定することは難しい。
そして、医学や生物学には解明できないということがわかると、今度は政治学者や経済学者が出てきて、ウイルスの政治や経済の立場から見た位置づけを議論し始める。とかく陰謀論が台頭しやすいのも、この文脈だ。
この意図で書かれたいくつかの文章は、医学や生物学の洗礼を受け、また、国際政治の道具であるという誹りを受け、ほどほどの嫌疑のままにそこに佇む。
これらの結論が捗々しくないことを確認すると、待ち兼ねていた未来学者や哲学者の出番になる。
諸君、そんなに近視眼的にモノをとらえようとするから、ダメなのだよ。樹を見て森を見ず、というだろう…
未来学者は勇ましい。ウイルスに天与の使命を与え、人間の傲慢を気づかせるための存在であったとか、ウイルスの自律的な意思が人間に鉄槌を加えるのだという…
これらの論説は、ある種の人々にとっては非常に受け入れ易いものだ。好意的に特等席を用意される。そのような論説こそを待っていたのです、と。
これは、ちょうど曜日のメリハリという拠り所さえ見失った「知的な人類」の恰好の慰みものあるのだろう。
こういうことを考えて、黄金週間の一日を過ごすことは決して悪くない。…ただし、絶望という名の隘路にはまり込んでいかない自信があれば。
筆者はというと、実はまだ、上記のどれにも与することはできずにいる。かといって、まだ何かを見つけた訳でもない。医学的現象を指向性のある科学的史観というシナリオで見ようとする私にとって、このウイルスはあまりにも原始的で、名優としての資質に欠けすぎているのだ。
ただ、それでも、このところ、ひと筋の光の糸が見えてきたように感じている。
それは、このウイルス禍が、小から大、軽薄から重厚、卑近から高遠のあらゆるレイヤーに問題を投げかける存在であるから。
人類の歴史が育んでしまった未解決の問題の数々。これらについて、我々人類自身が、同時的、自発的に考えることが何よりも大切なのだと感じられる。
ものごとを統一的に考えるということは、決して、輻輳的に考えることのアンチテーゼではない。
もう一度強調したいけれど、ここにはウイルスの恣意はなく、むしろ、呈示される現象や事実が存在するのみであろう。
人類にとって、我々にとって、自分にとって、最も大事なものは何かを改めて今日は考えてみたい。
醒めかけた珈琲を継ぎ足し、さらに多めのミルクを入れる。
少しでも、今日の目当てに資する為に。
すなわち、<Think Clam at Home>。
2020/4/26 Die革命グループ主宰・医師 奥 真也