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書評:ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』
バフチンがドストエフスキーに見た「ポリフォニー」と「カーニヴァル」とは?
詩というのは、少ないながらも読むことはあるのだが、書くとなると私にとって途端に敷居が高くなり、どうやったら書けるかのかが正直全然わからない。
私の書く文章はもっぱら説明的で、詩、それから小説やコピーライトも含め、アーティスティックに日本語を使える方は本当に凄いなと尊敬する。憧れもしたこともあったが、自分なりの感覚で綴っても良し悪しすら感じることが難しいままで、自分にはセンスを感じることができず、いつしか憧れの気持ちというのは減退してしまった。
昔ブログで、空の写真とか載せて、やたらに改行しまくって、行間は全部1行空けて、みたいな文章をアップして、詩っぽい雰囲気だけ作ってみる的なことをやっていたことがあったのだが、ある時テレビで南海キャンディーズの山里亮太さんが「そういうブログ書いてアート気取ってる感じが苦手」と言っていて、「俺やん!💦」とテレビの前で顔が真っ赤になってしまったこともあった(←ガチの黒歴史)。
「詩学」なるタイトルを持つ本なら、詩というものを学べるのではないかという気持ちもあり、好きなドストエフスキーの評論でもあったので、昔手に取ったのが今回ご紹介する著作、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』である。
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哲学的な著作であり、正直「通」にしかオススメできないようなもののため、この投稿で著作を読む必要がない程度に内容をご紹介できればと考えている(←ハードルあげてみる)。
著者のバフチンは、ドストエフスキーの作品を「ポリフォニー」と「カーニバル」というキーワードで特徴付けた。
「ポリフォニー」とは、ドストエフスキー自らが生み出した登場人物達がまるで独立した人格、思想を持っているかのように振る舞い、作中でそうした個性達が対話的に(ポリフォニックに)交錯するという作品の特徴を指し示すもの。
こうした作品の特徴を生み出すには、登場人物達が作者自身の考え・思想の範囲を大きく逸脱する必要があり、且つ現実の生身の人間を凌駕する程の存在感、リアリティを備える必要がある。
恐らくドストエフスキーは登場人物の創作に当たっても、自らの登場人物達に対し対話的ににアプローチし、強烈な関心を寄せ、その人物の内面を深く深く掘り下げる、即ち深く深く作り込む、という手法を取った、言わば創作手法も「ポリフォニック」であったであろうと考えられよう。
「カーニバル」とは祭りのことであるが、その際に人々が身分などの社会的な距離を取り払って至近距離で交わり合う様を捉えて、ドストエフスキー作品では登場人物達が祭りのように至近距離で対峙し合うという特徴を示したものである。
この特徴は前述の「ポリフォニー」とセットになっている。登場人物達が「カーニバル」のような至近距離で、全人格をぶつけ合うように「ポリフォニック」に対話を繰り広げる。こうした特徴が、バフチンが捉えたドストエフスキー作品の顕著な特徴である、というのが本著の主張と言える。
私はドストエフスキーの作品を読んでは常々、それらの特徴を「脱中心的」と感じてきた。それは、登場人物達の主張に重心がなく、あらゆる主張が異常なほどの存在感をもって並存している特徴を私なりに表現した言葉だ。中心のない宇宙空間に強烈な主張達がひしめき合っているイメージとも言えるだろうか。そこでは作者の立場、作者の意見を掴み取ることすら困難な程だ。
手前味噌ではありますが、私がそのように漠然と感じていたドストエフスキー作品の特徴を、バフチンの主張は裏付けてくれるもののように思え、私自身は本著に非常に説得力を感じている。
読了難易度:★★★☆☆
ドストエフスキー論デファクトスタンダード度:★★★★☆
ちくま文庫は高いよね度:★★★★☆
トータルオススメ度:★★★☆☆
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