書評:ヴォルテール『カンディード』
フランス啓蒙思想家による文学と人生観
今回ご紹介するのは、フランス文学よりヴォルテール『カンディード』。
最初に余談であるが、『カンディード』は現在、岩波文庫で他五編を含む形で復刊されている。しかし私が読んだ頃はまだなく、古本屋で購入した岩波文庫で読んだ。普通この手の岩波文庫の古本は100円とか150円とかなのだが、この本は2000円であった。
当時プレミア的な存在だったのだろうか?
さて、ヴォルテールは歴史的には「啓蒙主義」の思想家とされる。そして『カンディード』は文学作品で、楽観主義的なライプニッツ哲学を風刺した作品とも言われている。
まずは、概要から。
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主人公カンディードは、家庭教師に「この世の一切は善」と教えられ育った。しかしカンディードがその後歩んだ人生は悲劇の連続であった。自身のみならず、出会う人々も皆全て不幸であり、世の中が不幸に満ちている現実を知る。
世知辛い人生を経たカンディードは、自らが経験した現実に立脚した人生観を確立し、かつての家庭教師の教えから離れていく。
その後、カンディードと家庭教師が邂逅することになる。家庭教師は没落し客観的には不幸な状況にあるも、なおも「全ては最善」という盲信を繰り返すままであった。
現実に生きるカンディードと、変わらぬ老家庭教師が秀逸に対比され、物語は終わる。
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本作を読んでまず感じるのは、安直な調和論には何の力もないということだ。不幸が存在することを率直に認めなければ、ただの現実逃避にしかならない。
人生や社会には酸いも甘いもあるのが現実だ。不幸を認め、不幸を乗り越えなければならないのが人生だろう。
家庭教師の主張のような、現実逃避的な人生観には不幸と戦うための人間の牙・底力を削ぎ、人間を弱くする毒性すらあるように思う。
では、転じて「幸福」とは何であろうか。
幸福そのものを定義することは容易ではない。しかし、少なくとも幸福の必要条件についてはこうした文学から一定程度共通的な見解を捉えることができるように思う。
幸福とは恐らく、不幸がないことではない。
幸福は、「不幸がないこと」を必要としない。
ロマン・ロランは『ジャン・クリストフ』において、如何なる不幸にも負けない「心の強さ」を表現した。他にも、内村鑑三が『代表的日本人』で紹介する五人も、皆困難を乗り越えた人生であり、人はそうした人生に触れた時に奮い立つだろう。
そして、様々な文学が「不幸に負けない心の強さ」の拠り所を表現している。
『ジャン・クリストフ』は、自らの「使命の自覚」が「負けない心」を支える姿を表現していた。
デュマ『モンテ・クリスト伯』は、主人公が謀略により14年間の牢獄生活を送るも、脱走に成功し、復讐を成し遂げる物語であるが、本作は「待て!しかして希望せよ!」との一文で締め括られる。「希望」が「不幸に負けない心の強さ」の源であるという主張だろう。
幸福は不幸の回避や存在否定から生まれるものではなく、不幸に負けない心の強さの中にこそ幸福の萌芽があると、多くの文学が読む人を鼓舞してくれる。
「強くあれ!」というメッセージは、時として苦しむ人を追い込む諸刃の剣ともなる。それでも私は、根本的には人間にとって強くあることが幸福の条件だと思う。
余談ですが、環境の不遇よりも、自分の性格・性質が悩み・苦しみの原因である場合がある。しかし、絶対的にマイナスな性格・性質はないはずだと思うのだ。性格・性質の良し悪しは、その「働き方」次第、言い換えれば一見短所な性格・性質も時として長所となる。
例えば「臆病」は場合により「慎重さ」として力を発揮する。
「短気」は時に「情熱」として力を発揮する。
自分の性格・性質を責め嫌う必要などないのだと思う。
性格の良し悪しは適材適所だ。
自分の性格・性質を生かせる環境・生き方を選択・実現するのは難しいことだが、前提として「自分を良く知る」ことが重要になるだろう。
私はこれまで、文学を通した自分との対話による自己認識を柱に生きてきた。しかし最近では自己分析に係る優れた研究も出揃ってきており、それをベースとした自己分析手法も続々と開発されている。私もあまりやったことがないのだが、良書としてまとまった文献もあるようなので、私も読書の一環で是非活用してみたいと考えている。
読了難易度:★☆☆☆☆
啓蒙主義なる立場からの人生観伝わる度:★★★☆☆
「人生不幸しかない」という逆に極端度:★★★★☆
トータルオススメ度:★★★☆☆
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