千字薬 第3話.叱られ初め
1964年
頭上で、「こりゃあ、なんじゃ」という声が。私は座り込んで、クレイモデル(デザイン検討用の実物大粘土モデル)つくりに熱中していた。「50ccのスポーツバイクです」と答えながら振り向こうとすると、「エアクリーナーはどこだと聞いてるんだ」とさらに大きい声。びっくりして立ち上がると、目の前に憧れの本田さんが立っていた。これが、声をかけてもらった最初である。1964年、入社してまだ半年くらいの頃であった。
胸を張って「フレームに内蔵しています」と答えたら、「バカヤロー」が返ってきた。初めての「叱られ」体験。当時のバイクは、パイプフレームであれプレスのそれであれ、エアクリーナーは独立してフレームの外に取り付けるのが常識であった。本田さんは、「プレスフレームに穴を開けたら、弱くなるのが分からんのか」と強い口調で。
自動車のデザイン志望だった私はホンダに入社するまで、バイクの絵はおよ
そ描いたことがなかった。が、私なりに、当時流行りのID(インダストリアル・デザイン)調を気取って、ドイツ製のピストル「ワルサーP38」のグリップに銃弾が納まっているごとく、フレームの中にエアクリーナーをスマートにビルトインしたいと考えスケッチを描いた。
車体設計の先輩技術者が助けてくれた。が、強度を上げようと鉄板を厚くした結果、プレスでうまく絞れなくなり、そのために稜線の角Rを大きくし、それでも足りないからと、フレーム断面を相当太くされてしまった。思っていたスリムなイメージからだんだん遠ざかっていき、ついには、エアクリーナーが取り出しやすいようにとカバー(蓋)も大きくされた。幻滅だった。
何日か経って本田さんが見え、しばらくの間じっとモデルをご覧になっていたが、今度は何も言われなかった。そのモデルをあらためて眺めてみると、手を加えられ幻滅だと思っていたフレームは、見るからに丈夫そうで安心感があり、使い易そうで高価そうで、それでいてスポーティで個性的だった。私の描いたスケッチのなんと貧相に見えたことか。
人の命を預かる商品をデザインする心構えを、モノづくりの現場で、社長から直々に教わったのである。私が「ガングリップスタイル」と名づけたモデルは、その後「SS50」の名で発売され、私が現役を終えた今も、ベトナムの街を元気で走っているし、世界国々で今も製造されていると聞く。モノづくり屋冥利に尽きるとはこのことであろう。