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第138話.隠し腹

1987年

料亭「新玉」の会議から4年近くの時を経て、「栃木研究室」は「栃木センター」に大きく発展し、名実ともに3000人近い所員を抱える堂々とした研究所となる。いよいよデザイン室をどうするかという段階になっていた。
私は研究所常務として、デザインと商品戦略を担当し、4代目「ホンダアコード」の、企画とデザイン作業にとりかろうとしている頃である。
4輪研究所の、栃木への前面移転について室員に投げかけてみたが、誰一人、栃木に行こうとは言ってくれない。と言うより、みんなは私の心を見透かしていて、「銅像を建てますから、ここで」と迫られてしまう始末。しかし私としては、四輪担当の所員8割が移転を終えた中、もう年貢の納めどきだと覚悟を決めていた。
何かトップへの説得材料がないかと考えた挙げ句、大きな関東地方の地図を壁に貼って、室員それぞれが住んでいるところに「待ち針」を刺してもらうことにした。予想を違えて、都下を含めて東京都に刺した針は100人近い室員の中で、私を含めてほんの数本だった。
東京都に住んでいる室員が半数は超えていると思っていたのに、それも川越より北に住んでいる室員のなんと多いことか。こんな調子では揚げ足を取られるのがおちで、この手でお願いなどできないなと覚悟をする。
4年前、料亭「新玉」の会議で、国際空港をつくってもらえれば栃木に行っても良いなどとでかいことを言った手前もあり、「ままよ、自然体で」と思っていたら、「僕も一緒に」と研究所副社長が。100万の味方を得た思いだった。
副社長とともに、本田技研社長(4年前は研究所社長)ところに出向き、「ここ(和光市)でやらせて下さい」とお願いをする。
「どうしてだよ」と聞かれた。「自信ありません」「何故だ」と問答が続く。「私は27年ずっと東京に住んでいます。そして、社長に世界一になれと言われて、ここ(和光研究所)で、それを実現しました。ですから…」と、お願い半分脅し半分である。
社長は暫く腕組みのままだったが、「ところで、『隠し腹』をして来てるんだろうな」と。「はい」と答えた。話はそれだけで、デザイン室が和光にとどまることが決まった。「良かったね」と副社長。その後、社長にはますます頭が上がらなくなった。
それにしても、その後、私の銅像は建った話は聞かない。ちなみに隠し腹とは、江戸時代、お上に無理な頼み事をする時、すでに腹を切り、その上にさらしを巻いて臨むことを言う。

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