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第208話.横丁のご隠居見習い
1996年
研究所4輪部門の室長や部課長が集まる、週一度の、「マネージメント・ミーティング」の席である。「それでは一言、お願いします」と、研究所所長が私の顔を見ながら促した。
私が、6年間の本田技研工業との兼任業務を終え、研究所専務を専任するに当たり、研究所の幹部連に対し、何か思うところをしゃべって欲しいとのことである。「コ」字型に座った30人ほどの目が、一斉に私に向いた。
本田技研本社の常務取締役を経験した人間がどのような話をするのか、みんな興味津々という顔である。「一言では、なかなか言えませんが」と前置きし、以下のような話を始めた。一晩考え抜いた内容である。
冒頭、「私は、『横丁のご隠居見習い』として、今日から、皆さんと一緒に頑張るつもりです」と切り出す。みんなが、何を言い出すのかという顔をする中、さらに話を進めていった。まず、本社での6年間をかい摘んで振り返ってみる。
「五十にして天命を知る(知命)、という孔子の有名な言葉があります。私は、丁度50歳という90年の6月から96年の6月までの6年間、4輪推進本部でのHAST(Honda Automotive Strategy Team)委員長、その発展組織の4輪企画室長、またそれがさらに発展した4輪事業本部で商品担当役員の任にありました。この間の最初と最後に当る時期は、奇しくも国内販売台数が、下り坂に入った67万台から上り坂で勢いのついた67万台までの間、ということになります。初めの4年間は落ちっぱなしで、どん底は53万台でした。この落ちながらの苦しいさなかに仕込んだ「オデッセイ」や「CRV」の成功により、あとの2年間で、もとのところまで盛り返すことができたのです。本社の役員として、その任に入る時と出る時の数字が同じだから、お前は何をやっていたのかと言われそうですが、同じ67万台でも、内容というか、その中身が全然違っています。その中身なるものがどのようにして変えられたのか、私自身の悪戦苦闘の経験を通じて、私の身体そのものがよく知っています。それを、何とかしてみなさんにお伝えしたいのです」、と一気に話して一息入れた。
その上で何故「横丁のご隠居見習い」なのか。「横丁」にも「ご隠居」にも、それに「見習い」にも、それぞれに私なりの考えがある。一言が長くなってしまったが、めったにないチャンスと、迷惑を顧みず話を続けることにした。