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第147話. 最後発

1989年

ホンダがS600で自動車への参入を果たしたのは、東京オリンピック開催の1964年。私が入社した年でもある。日本のモータリゼーションは、まさに花開こうとしていた。
この時期一世を風靡した車は、アメリカのフォードムスタング、ドイツのポルシェ911、イギリスのジャガーEタイプ、イタリアのフェラーリ250GTOなど、それぞれのお国柄を背景に個性的で百花繚乱の趣があった。
その後、アメリカの車は大排気量の「モンスターカー時代」を迎えたが、やがて訪れるエネルギー危機や排出ガス規制対応等により、その姿、立場を変えざるを得なくなる。
こうした華やかな車の陰で、大衆の足として、実用性の高い車がヨーロッパの各国で生まれ、70年代初頭のフロントエンジン・フロント・ドライブのスモールカーが台頭。
そして、突然の「オイルショック」は、この高効率を追及したコンセプトの優秀さを世界中に認めさせることになり、あのフォルクスワーゲン・ビートルでさえも大変身せざるを得なかった。アメリカの各メーカーも、長年つくり慣れた大型車を一斉にサイズダウンし、暫時、FFレイアウトに切り替えていった。
1973年、79年の二度にわたる石油危機は、自動車にさらに高い効率を求め、より軽量コンパクトという方向にと技術競争を加速させ、いわゆる「小型車戦争」を引き起こすに至る。
そうした中、最新設備やエレクトロニクス技術に優位性をもつ日本車が、世界市場で大きく躍進することとなった。その結果、各国からの厳しい輸入制限や急激な円高誘導を招き、さらに日本車の均質化や没個性化も重なって、日本車の国際競争力が急激に低下して行ったのである。
このように、大急ぎで、自動車が生まれてからの100年を振り返ってみた。使い手とつくり手の欲が車を大きく進化させ、同時にそれが度を越した時、必ずと言っていいほど大きな変化を余儀なくされてきた、という経緯が読みとれる。
「それで何が分かったんだ」と言われそうだが、生々流転、因果応報の100年であったことは確かだ。そして、1つだけ自信をもって言えることは、歴史を飾ってきた名車と呼ばれる車たちは、どれをとっても颯爽として格好が良いということである。
ともあれ、この90年代半ば、車社会は、大変なターニングポイントに立っているんだとの自覚はできた。私は商品担当役員として、21世紀に向けてのホンダ四輪商品の将来のあり方を考える立場に立たされていた。

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