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第72話. 想いは高く

1976年

初代「ホンダアコード4ドアセダン」のデザインを進めているところへ本田さんが見えた。モデルを見るなり、「4ドアのお客さんはな、3ドアとは全然違うぞ。このお客さんにはきみ、大きく見えたり高そうに見えることが大事なんだ。形はもっと四角く、メッキモールはもっと太くもっと多く」と強い口調で。
アコード3ドアは、「大人の雰囲気を持ったスポーティ・ハッチバック」として発売。市場の評判も頗る良く、それに気を良くしての派生機種の開発であった。だからチームは、3ドアのもつスポーティなフロント廻りをそのまま使い、そのイメージを踏襲したいと考えていた。
私は30代半ば、シビックの次に乗る車はこれだと決めていた。四角くてメッキが一杯ついている車などどこかの会社に任しておけばよい、と、私だけでなくチームの誰もがそう思っている。そんな訳でついつい形だけの対応になり、その心根はすぐ本田さんに見破られた。
たちまち、「君たちはお客さんの本音がちっとも分かっていない。自分の立場でしかものを考えていない」と。もともとやりたくないのだから腰が入らない。何度やっても声が大きくなるばかり。来る日も来る日も同じようなやり取りが続き、ついには誰も寄りつかなくなった。
たまりかね、「これ以上は無理です。私はそんな高級な生活をしていませんから」と開き直ると、「バカ野郎!じゃあ何か、信長や秀吉の鎧甲や陣羽織は誰がつくったんじゃ」と一喝。グーの音も出なかった。
それからと言うもの、国立博物館や近在の美術館を訪ね、名のある工芸品や調度品など見て廻わった。いつしか室町文化に日本の「美」の原点があるのではと思うようになり、心を惹かれたのが世阿弥のこと。「高級」を求め、とことん悩んでの出会いであった。
彼が「風姿華伝」を書き上げたのは、この時期の私とほぼ同じ年頃のこと、「凄い」としか言いようがない。彼は当時、身分が低いとされた芸人の出でありながら将軍の寵愛を受け、それに奢れることなく貴族階級の「雅」の神髄を求め、「幽玄」という独自の「美」を極めた。
彼のそうした創造のエネルギーは、一体どこから生まれたのだろうと、私はその秘密を探った。結局、想いを高くして世のため人のため、倦まず弛まず創意工夫を重ねること以外に手立ての無いことを知り、道は遠いと覚悟した。「初心、忘れるべからず」「秘すれば花」「離見の見」などの言葉は、今も私を刺激し続けている。

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