
第76話. 田舎者
1977年
「こんなことは田舎者のすることだ」と本田さんにこっぴどく。初代「ホンダプレリュード」の開発に着手した頃。中身がセダンのままで、一見それらしいスタイルにし、スポーティな車をつくろうとした俄仕立ての付け焼き刃を見透かされた。
東京に住んで20年、自分ではいっぱしの都会人気取りでいたものだから、田舎者と言われなんとも悔しかった。よく「田舎者」「都会的」と対称的に言う。田舎者とは野暮で垢抜けしない人のことで、俗にいう「芋」である。
洗練され垢抜けした人を都会的という。が、都会にはそうでない田舎ものも大勢いるし、田舎にも都会的な人は沢山いる。田舎に住んでいるから田舎者という訳でもない。
大抵の場合、都会にいれば放っておいても綺麗になる。「芋洗い」と同じで、お互いがこすり合い「情報」の洗剤で洗われるからだ。洗うと身体が綺麗になり、これを「洗練」という。「野暮」の反対は「洒落」、「そぎ」「おとす」と読み、洗練と同じ意味。
「身」を「美」しくすることを「躾」と書く。身を美しくするとは他人に迷惑をかけないよう気を配ることで、「気配」を感じることだ。気を配っていると人の気持が分かるようになり、やがて人を気持良くすることに繋がる。
垢抜けするとは、毛穴につまった汚れを落とし肌を綺麗にすること。世の中の動きや時代の流れに敏感になり、「肌で感じる」とはまさにこのことだ。物事に感動できる心が育まれ都会的な人となる。日本古来の「茶道」や「小笠原流礼法」の教えも同じこと。デザイナーが美しいものをつくり出そうと思うなら、まず自分自身を美しくすることだ。
都会は「巷」とも言う。「己」と「共」に大勢の人がいるということ。都会に行くと見も知らぬいろんな人に出会う。当然、あちこちに気を配らなければならない。その代わり、周りの人たちが持っている豊富な情報が黙っていても入ってくる。だから、「巷へ出よう、ドキドキしに行こう」となる。
「巷」という字に「サンズイ偏」を付けると「港」。海の向こうから見知らぬ人がやって来る。新しい情報が刺激になって、さらに世界が拡がってゆく。もっと早く、もっと沢山の情報を得ようと思えば、港に「空」をつけて「空港」だ。
情報をこのように考え、自分を高めるエキスにすればいい。「ドキドキ」するところへは人が集まる。「ムンムンカッカッ」するところにこそ、新しいものを創出するエネルギーが生まれて来るものだ。