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第56話.現適1号

1972年

所長室に来るようにとの連絡が。これはまた何かポカをしでかしたかなと心配しながら行ってみると、呼ばれたのは私だけでなく、足屋(サスペンション担当)のPL(プロジェクトリーダー)も一緒だと判った。妙な組み合わせである。
「ヨーロッパに行ってもらいたい」と研究所所長から切り出された。飛び上がるような気持ちを抑えて、お互い顔を見合わせにんまり。私にとって初めての外国である。初代「ホンダシビック」のヨーロッパ仕様の試作車1台は既に船便で発送済みとか。
1972年の初秋、シビックはすでに日本での発売を開始し、3ドアGLがこれからという頃。我々の役目は、後に呼び方の決まった現適(現地適合性検定)の第1号である。この頃外国出張はまだまだ珍しく、羽田空港(成田空港はまだなかった)には室長ご夫妻をはじめ、ほとんどの室員が見送りに来てくれた。
現適会議の場所はパリである。羽田からアンカレッジまで飛び、一度休んだあと再び北極を越えてアムステルダムへ、また、しばらく休んでパリへ向かった。もちろんエコノミークラスで20時間を超える空の長旅。
オルリー空港には、サービス部のS担当が「BMW2002(3シリーズの前身)」で迎えてくれた。当時のヨーロッパでは、マネジメントクラスの憧れの車である。私もすいぶん模写をした車だが、彼はさすがサービス担当、すばらしい運転テクニック。「凄いね」と褒めたら「ここじゃ、女の子でもこんなもんだよ」と。
まずは腹ごしらえにとレストランへ。「飲み物はワインにするか、水にするか」と聞かれてびっくり。真っ昼間のこと結局、真っ赤な顔でフランスホンダの事務所に行く羽目になった。次の日からパリ郊外で試乗会が行われる予定。ホテルにはヨーロッパ各国から続々と、営業とサービスの担当が2人組で参集してきた。
同行の先輩から「君は試乗会よりパリの街をよく見といた方が、この後の内外装色や仕様装備を決めるのに役立つんじゃないか」との有り難い提案。これ幸いと、若い営業担当の運転で街を一日中走ってもらった。エトワール広場のロータリーなど、一度入ったら出られないだろうと思うくらい度胸とテクニックで、しかも若い女の子までぶっ飛んで走っている。
一日中動き回って判ったことは、同じ都会とは言っても、日本の中でたとえると東京ではなく大阪だろうなと。関西育ちの私にとって何となく肌に合い、一日でこの街が大好きになってしまった。

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