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第200話. 一日一書、一日一句
1995年
仕事始めの日から、パソコン修行で寝るのが2時3時の毎日。仕事場の若い連中は興味津々である。「ブラインドでやれるようにするといいですよ。姿勢がいいと、さすが、と思われますから」と、この一言でまた大変。
そんなこんなで、日記は7カ月続く。「日句」は2年半続き、その数1000句を超えた。思うに、パソコンは今世紀の偉大な発明であり、私にとっては、人生最大の発見でもあった。そして、マッ君とつき合って感じたことも少なくない。
元来、字を書くことや文を書くことは嫌いな方ではなかった。が、キーで文字を打っているうち何故か、無性にペンや筆で字を書きたくなるのに気付く。そこでたまらずに、「一日一書」「一日一句」と願かけし、筆で字を書くことを始めた。
50の手習いで、書道の先生のところへ。しかし、「今から基本を習うのは手遅れ、そのままでよろしい。個性を伸ばした方が、」と体よく諭され、お蔭で今でも我流のまま。空海の字も、良寛のそれも、言うまでもなく達筆だ。が、それにもまして個性的と納得する。
古い人間だろうか、ペンや筆を持って紙に向かっていると、また字を書き始めると、何やら、次から次へとイメージが湧いてくる。パソコンのワープロ機能は、確かに便利だし編集能力も凄い。が、画面を前にしても何故か何も湧いてこない。
今の人たちは、パソコンに向かってのみ字や絵を描いている。が、あれでイメージが湧いてくるのだろうか、と不思議に思う。ソクラテスは、文字があると記憶力が衰えると言って、一切文字を使わず、プラトンに語り伝えたという。
しかし、文字があるから、我々はソクラテスを知ることができ、痛しかゆしと言うところ。禅の世界では「不立文字」と言い、文字では何も伝わらないとして「以心伝心」の大事さを説く。
文字のない時代から、文字が生まれ、甲骨文字、漢字、ひらがな、カタカナと日本人はいろんな文字を知った。筆がペンになり、ペンに代わってキーを打つ、それも時代だろうか。
最近また「般若心経」の写経を始めた。最初のうちは単純な行為の連続であるが、結果の素晴らしさにはいつも感動する。「書き始めはなんとなく拘りがあり、そのうち一種のリズムが湧いてきて、進むにつれ、心が空っぽになる」と言った人がいた。同じ気持ちである。
「一字、一文、法界(宇宙的、永遠の世界)に遍蔓する」と、空海が言っている。私はマッ君と筆君とで、仲良くやってゆこう。