第118話.後悔、先に立たず
1984年
3代目「ホンダシビック」が間もなく、HAM(ホンダオハイオ工場)で立ち上がろうとしていた。が、その仕上がりレベルはと言えば、来週早々にも陣中見舞いにこられる本田技研社長には、到底見せられる代物ではない。私の方は、現地へ行けばなんとかなるだろうと、とるものもとりあえずやってきたものの、これはえらいところへ来てしまったと、「後悔、先に立たず」であった。私と一緒にオハイオ入りした鈴鹿工場のベテラン技師も、言うべき言葉も、なすべき手立ても見つからない状態。物(ぶつ)個々の「出来」が悪いものを、組立て調整の範囲でどこまで全体のレベルが上げられるか、とにかく、やれるところまでやってみようということにしたが、アメリカ人スタッフからは猛反発を食らった。自分たちのやったことを否定されていると思ったらしい。すでに週末の退社時間でもある。アメリカ人スタッフは、「我々が帰った後、自分たちの組んだものを、日本人が勝手にバラして組み直すのは許せない」と言うのだ。そこで、いろいろと話し合って、やっと、一度バラして組み直す作業の必要性は納得してもらった。そうしたら彼らは、「残業してでも、自分たちの手でやる」と言い出したのである。これほどのやる気をみせたのは、今までなかったことらしい。彼らの闘争心を掻き立てたのだ。「彼らだけだと、朝までかかるぞ」と言うことで、日本人スタッフも一緒にやることになった。外装は、ボディの蓋もの(ドアやトランクリッド)やライト類の合わせなどである。内装は、インパネの取り外しとバラし、それにそれらの再組立てで、特にこの作業は、ドアやドアライニングにまで及ぶ大仕事になった。が、日米混成部隊による共同作業で、お互いが張り合い、思った以上の成果を上げたのである。「共創と競争」とはまさしくこのことであった。次の日は土曜日、日本人だけで仕上げの微調整を、その上今後のために、単体精度や複合精度などの課題整理を実施。週明け、でき上がった車をアメリカ人スタッフと一緒に最終チェック。さすがに、同じ部品を組んでもこんなに素晴らしくなるものかと彼らも驚き、自分たちでやったんだとの自信を持った。もちろん、一緒にやった日本人仲間への感謝も忘れない。やっと、いい雰囲気が出てきたようだ。こうして、社長をお迎えする準備が整う。アメリカ人は自信満々。だが私は、このレベルでは相当とっちめられるぞと覚悟していた。