第201話.コンバート
1995年
6代目「ホンダアコード」の開発方針が、やっと固ってきた頃である。今やアコードは、何と言ってもホンダの屋台骨。そのアコードに、初代から歴代にわたり、私は何らかの関係を持ちながら今日に至っている。そしていよいよ、これが最後のアコードかと思うと身も心も引き締まった。
今回は、4輪事業本部の商品担当役員としての関わり。RAD(機種開発総括責任者)は経験豊富な車体設計出身のHさん、私とは苦楽をともにしてきた仲である。6代目アコードの眼目は、なんと言っても、北米40万台の販売とオハイオ工場のフル稼働の保証であった。
そのための商品戦闘力として、エンジンはベースの4 気筒エンジンを100ccアップして2.3Lに、V6エンジンは新設計でオハイオ生産とする。そして、フロアや足まわりは待望の新設計に、もちろん,この中身に相応しいパッケイジとスタイリングは当然、革新が期待されていた。
同時にセダン系の衰退が著しい日本では、アコードのブランドを再構築しようと、人気の高かった3代目「ホンダアコード」の「スポーティさ」を今一度と、サイズは5ナンバー、エンジンも2.0Lをメインと定め、見るからにスポーティなデザインを標榜。
この日米二つのアコードを、一つの基本技術でつくろうとしたのがこのチームのもの凄いところ。核技術はV-6エンジンとL4エンジンの「混載」、それと、アメリカのビッグサイズと日本の5ナンバーサイズの両立を可能とする「自在プラットホーム」、加えて新設計の「マルチリンクサスペンション」にあった。
エンジン形式と排気量は、結局、ついには後述のヨーロッパアコードも含め、1.8L(L4)~3.2L(V6)まで包含する広範囲なものとなり、プラットホームは、これら全てのエンジンが無理なく搭載できることが条件とする。
またこのプロジェクトの大きな課題は、V6エンジンを除いて、前アコードの投資額の範囲でやることにあり、加えて、コストを2 年前のモデルに対して20%下げることにあった。
円高が急激に進む状況下、「売れるところでつくる」という基本ポリシーのもと、激論のすえ、これまで狭山工場でつくっていたインスパイア系は、アメリカ用アコードの横置きV6を搭載してオハイオ工場で。
また、オハイオ工場のアコードワゴンは、日本用アコードのバリエーションの一つとして狭山工場でつくる、という思い切ったコンバート(交換)を決断する。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?