第75話. 頂点から見下ろす
1976年
「アコードの椅子、疲れてしようがない。みなこんなか」とデザイン室に入るなり本田さんが荒げた声で。その車(ホンダアコード3ドア)だけ特別のものを付けているわけではない。そう答えると、「そりゃあ、なおさら大変だ」と目をむかれた。
週末、絵を描きにご自身の運転で蓼科辺りまで、中央高速はまだ部分開通で、3時間はぶっ通しで運転されたそうだ。途中、尻のおさまりが悪いのが気になり、座り方を変えてみたが何ともならなかったとか。
シートの位置かと前後に動かしても、背もたれの角度を変えても一向に良くならない。蓼科に着く頃にはすっかり疲れ果て、絵を描く気にもならなかったと。「車を放って、帰ってこようかと思った」とますます声が大きく。相当、頭にきたらしい。早速、本田さんの車に特別な問題が起こっていないかシートの担当者とともにチェック。
座ってみて、シビックに乗る私などには羨ましいくらいの快適シート。むろん量産のものとの違いも発見できない。だから問題がなかったとも問題がありましたとも言えない状態。それほど我々はシートに関する知識を持ち合わせていなかった。
本田さんは、世界の高級車を乗り回してこられた方。シートの担当者と一計を案じ、本田さんが走った道を自分達も走ってみようと。走行テストの連中も加わり、ベンツや日本の高級車を連ねて蓼科に向かう。
座った印象は、アコードも含めて日本の車は沈み感がソフトで快適、ベンツの方は逆に硬くて乗せられているようで不快。ところが2時間も乗って笹子峠を越えた頃には、日本の高級車は次第に疲れが出てきて、しょっちゅう姿勢を変えたい気分に。
70歳近い本田さんは、どの辺でそうなったのだろうか。ベンツの方は全然疲れない上に、硬いと思っていたシートがむしろ心地よく感じるように。そして帰りには、誰も日本の高級車に乗ると言わなかった。
みんなで話し合い、本田さんには感じたことを正直に報告することにした。叱られるかと案じたが「そうか、分かったか」だけだった。世界で一番優れているものを体感し、悔しいがそれをお手本にして、いつかは乗りこえてやろうと心に誓う。
すぐ猛勉強が始まった。椅子の権威と言われるドイツの教授や、アメリカ育ちの整体術の大家に教えを請う。椅子文化のない日本人が、椅子で育った西洋人に習い、下から積み上げることも大事だが、目標や評価は、頂点から見下ろすものだと教えられた。
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