マガジンのカバー画像

千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅰ.1960年代

37
ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1960年代(20代–志学)
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

はじめに

1997年7月、私が本田技研の本社役員を退任し、古巣である研究所のECA(主席技術顧問)を拝命。…

岩倉信弥
5年前
7

千字薬 第1話.東京

1963年 主任教授から大手自動車会社に、「きみを推薦したい」との話があった。教授のアートセ…

岩倉信弥
5年前
8

千字薬 第2話.造形室

1964年 「1週間経ちましたので、そろそろデザイン室に連れてって下さい」と、私はたまりかね…

岩倉信弥
5年前
9

千字薬 第3話.叱られ初め

1964年 頭上で、「こりゃあ、なんじゃ」という声が。私は座り込んで、クレイモデル(デザイン…

岩倉信弥
5年前
5

千字薬 第4話.線図

1964年 上司から、「ホンダS600クーペ」の線図(立体の断面を線で表した図面)作業を手伝うよ…

岩倉信弥
5年前
6

千字薬 第5話.木型メッキ

1964年 やっと4輪担当の一員となり、「L700」というバン(貨客車)の外観デザインチームに入…

岩倉信弥
5年前
2

千字薬 第6話.200ccの見せ方

1965年 「ホンダS600」の排気量をアップして800ccに。いわゆる、MMC(マイナーモデルチェンジ)の仕事が入社早々の私に巡ってきた。MMCとはいえ待望の4輪の仕事である。大いに胸が高鳴った。 今回は排気量アップだけでなく、駆動方法も変わるうえサスペンションにも変更が及ぶ。が、設計部門からは、「コストを抑えたいから、くれぐれも外板(鉄板)はいじってくれるな」ときつく釘を刺されていた。 強力なエンジンが載るのだから、付き物(艤装部品)だけで見え方を変えるとなると、ラジ

千字薬 第7話.目標は高く

1965年 1960年代半ば、「月に1万台売れる軽乗用車をつくれ」という本田社長の号令がかかる。…

岩倉信弥
5年前
4

千字薬 第8話.木製簡易定盤

1965年 造形室の片隅にエンジンルームのパッケージモデルが置かれ、内部にバイクのエンジンら…

岩倉信弥
5年前
2

千字薬 第9話.現物(ぶつ)

1966年 「AN」いう社内呼称がつけられた「ホンダN360」のクレイモデルは、順調に作業が進んで…

岩倉信弥
5年前
2

千字薬 第10話.無我夢中

1966年 毎日のように、私は、狭山製作所の中にある第三工場(現在のホンダ・エンジニアリング…

岩倉信弥
5年前
5

第11話.知恵を出せ

1966年「ホンダN360」の開発が、艤装部品など小物デザインの段階に入った頃のこと。「アイデア…

岩倉信弥
4年前
2

第12話.見る、視る、観る

1966年四輪走行テスト室で、「デザインした者をここへ呼びなさい」と言って、本田さんが怒って…

岩倉信弥
4年前
6

第13話.色の道

1967年 「ホンダN360」は、いよいよ色を決める段階にあった。カラー・ラインアップはシンプルにしようと、立ち上がりは3色と決める。赤と白は当確であったが、「S600」の赤と白はコストが高過ぎて使えないことが分かった。彩度が高いからだという。これらをコストに見合うようディチューンし、さらに新色を1色開発することに。日ごろ本田さんから、「赤と白はね、S600に塗る時は苦労したんだよ。なにしろ、赤は消防車、白は救急車と紛らわしいから駄目だって役人が言うもんだから、赤も白も昔から