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1942年のマレー語ブームと灰田勝彦「ジャワのマンゴ売り」

ロシアのウクライナ侵攻により、戦況や和平交渉に関するニュースとともに、さまざまな「ロシア排除」のニュースも流れてきます。経済制裁のみならず、オリンピックでの出場権停止、国際交流の停止など、この雰囲気の中で「自粛」のムードも感じるわけですが、それが不当な排除につながらないようにとも思います。

イタリアの大学で、ドストエフスキーを講じる講座が、止められかけた、というニュースも流れてきました。

日本はかつて、敵性言語を排除した一方で、アメリカに渡った日系人の強制収容という状況も経験しています。

世情に応じて、人の気持ちはうつろうという話でいきますと、太平洋戦争開戦直後のマレー語ブームという話があります。最近知りました。NHKの「映像の世紀プレミアム」の中で、マレー半島、蘭印での戦いに日本が勝利した後、にわかに「マレー語」のブームがきたという描き方がされていました。

探してみると、この頃のマレー語ブームを扱った論文も見つかります。

日本の蘭印進駐の映像は、アジアに日本文化を強いた象徴的なものとしてしばしば紹介されます。また日本による占領中に、日本兵とオランダ人女性との間に子どもが生まれ、その子どもたちが戦後オランダで差別に苦しんだという「日系オランダ人」の話もあります。インドネシアの長い植民地支配の歴史の中では、日本の支配は短いものでもあり、日本兵の中には、戦後インドネシアに残ってともに独立戦争を戦った人たちもいます。そういう意味では、時にさまざまな評価が交錯するのですが、今日、その支配そのものが正当化されるものではないでしょう。

ただ文化の側面で見ると、太平洋戦争初期には、マレー語だけでなく、音楽にも「南国風」のものが流行りました。代表が灰田勝彦の「ジャワのマンゴ売り」です。戦時下の曲ではありますが、南国へのイメージを広げるような歌です。日本軍が攻め込んだ地域に、内地の人々の関心を高めるという「建て付け」で認められたのでしょう。

最初はナシゴレン売りを想定して「ジャワの焼き飯売り」だったのですが、語呂が悪いので「マンゴ売り」に変わったと、Wikipediaには記述されています(出典はない)。

灰田勝彦さんの曲リストをみると、ほかにも「バタビヤの夜は更けて」「ジャワの夕月」「ジャワの宝船」といった曲名が出てきます。


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