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樺太の少数民族とオタスの杜—ゲンダーヌの悲劇

(育英館大学の授業で、学生が書いた記事。担当:今田)

稚内の対岸に広がる樺太。その地には、独自の文化を持つ少数民族たちが暮らしていましたが、戦争と共に彼らの運命は大きく変わりました。育英館大学の学生たちが、この知られざる歴史を探り、オタスの杜とゲンダーヌの悲劇に迫ります。

樺太の少数民族-タライカ地方での生活
 日露戦争が終わった後の樺太の地には、日本人やロシア人に加え、アイヌ、ウィルタ、ニヴフ、エヴィンキ、ウリチ、ヤクートといった少数民族が暮らしていました。彼らはそれぞれ独自の文化を持ち、樺太の自然と共に生活していました。
 特に、タライカ地方と呼ばれるツンドラ地帯は、これら少数民族が集住する地域で、樺太南部でも少数の各民族が混入している唯一の地域でした。日露戦争後に日本がこの地域を領有してから後も、各姻族の雑居地域としてほとんど放置されていました。

オタスの杜-少数民族の強制移住

オタスの杜(樺太資料館展示より)


 1926~27年にかけて、日本人から隔離して集住させるために政策的に「土人部落」を建設し、「オタスの杜」と呼ばれる集落に強制的に移住させました。この場所は、現在のポロナイスクに位置し、樺太庁が「生活の改善」と称してウィルタ、ニヴフ、エヴィンキ、ウリチ、ヤクートといった民族が集められ定住を強いられたのです。
 オタスの杜には、敷香土人教育所という教育機関も設けられ、オタスに移住させた先住民族に対して日本語を中心とした教育が行われました。この政策は、先住民族の伝統や文化に大きな影響を与えましたが、一方で「土人の都、オタスの杜」という名目で、観光船が敷香から運行されており、その船の船長をしていたのがウィルタ族出身のゲンダーヌという人物でした。

ゲンダーヌ-少数民族と戦争の影

 ゲンダーヌはウィルタ族出身で、観光船の船長として活躍していた人物でした。
 その後ゲンダーヌは日本軍に入隊し、徒歩訓練や隠密行動、射撃やロシア語、偽装や偵察技術の訓練を経て、ゲンダーヌは戦時中に樺太での諜報活動に従事します。
 しかし、戦局が日本に不利になるにつれ、彼の立場はますます危険なものとなっていきます。終戦後、ソビエト軍に捕えられ、工作員としての活動が明るみに出た彼は、ラーゲリという強制収容所で7年半の労働を強いられました。
 1955年、ゲンダーヌはようやくソビエトの強制収容所から釈放され、舞鶴に引き上げました 釈放されたゲンダーヌは、自分が待つ故郷の樺太やオタスを失ったことから、「自分を待ってくれる故郷がほしい」と思うようになりました。戦後の混乱の中、彼は家族との再会を果たすべく稚内にいる兄を訪ね、住み込みで鉄工場で働くことになります。長年の苦難を経て兄と再会できたものの、心の中には依然として故郷への思いが募っていました。
その後、かつて日本軍で共に過ごしたイガライヌの母、チヨから網走の美しい情景について話を聞くうちに、ゲンダーヌは自身の故郷に似た自然豊かな場所で暮らしたいと強く願うようになります。網走に住むことを決意した彼は、職を得ようと職業安定所を訪れました。しかし、そこで「戸籍のない者には就職の斡旋ができない」と告げられます。差別を恐れたゲンダーヌは、就籍届の手続きの際に母オーリカの名前を載せずに登録し、「北川源太郎」の戸籍が作られます。
 その後、1975年にかつての上官の手紙から旧軍人には恩給が支払われることを知り、「オロッコの人権と文化を守る会」の協力を得ながら申請手続きを行ったものの、恩給は認められませんでした。
 1976年には国会で議論されるまで至りましたが、当時の少数民族に日本国籍はなく、兵役義務もなかったので非公式の令状にて招集されたとして、彼らに戦後補償が与えられることはありませんでした。
 1978年には、募金を募り、網走市が提供した土地に「ジャッカ・ドフニ」(ウィルタ語で「大切なものを収める家」という意味)と名付けた資料館が設立されましたが、1984年7月8日に、「ジャッカ・ドフニ」で急逝しました。

忘れ去られた歴史を掘り起こす
樺太の少数民族と彼らが辿った運命は、戦争の影に隠された歴史です。オタスの杜の建設やゲンダーヌの物語を通じて、彼らの生活と文化がどのように変容し、時には失われていったかを知ることができます。今、この歴史を振り返り、次世代に伝えていくことが求められています。

【感想】

稚内で生きていても、アイヌだけしか知ることがなかったので、今回の調査・研究を通して、少数民族に対する知見を深めることができました。

【参考文献】

田中了 編「母と子でみる20 戦争と北方少数民族 あるウィルタの生涯」(草の根出版会、1994年)

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