稚内と樺太を結んだ玄関口—北防波堤ドームと稚内桟橋駅、その誕生と背景
(育英館大学の授業で、学生が書いた記事。担当:平良)
日本最北端の地、稚内。目と鼻の先に広がる樺太(サハリン)は、かつての日本の領土であり、その歴史は複雑でありながらも、日本とロシアの接点を象徴しています。そんな歴史を背負いながらも、今や静かな観光地となった稚内の北防波堤ドームや稚内港、稚内と樺太を結ぶ交通の要所としてかつて存在していた桟橋駅という施設の存在。育英館大学の学生たちが、その知られざる歴史を探り、稚内と樺太を結んだこれらの施設の背景に迫りました。
稚内港
稚内港の歴史は、1917年に始まった北海道第1期拓殖計画に端を発します。北海道第一期拓殖計画は、ロシアの南下政策に対する防衛、欧米諸国などに対抗するため、多くの天然資源が眠る北海道、樺太の開拓を促進させ経済力を高める必要があったため策定されました。
当初、稚内港の築港事業は計画の一環として進められる予定でしたが、稚内には、樺太から運んできた大量の積荷を乗せ、運ぶための輸送機関がない状態でした。そのため、当初、稚内港の築港事業は計画の一環として進められる予定でしたが、鉄道開通を優先する方針に転換し、一度は棚上げとなりました。しかし、1919年の再計画により築港工事が復活し、1922年には宗谷線(天北線)が開通。樺太との開発進展もあいまって、1927年には第2期北海道拓殖計画においても石炭積出港や樺太、千島との連絡港としての機能が求められました。これにより、稚内港の築港工事は再び進められ、北防波堤ドームや桟橋駅の建設が実現しました。
北防波堤ドーム
1931年から1936年にかけて建設された北防波堤ドームは、港の防波として桟橋駅から鉄道や連絡船に乗る人、貨物を波から守る機能をはたしました。これにより、港を往来する人々の安全が確保され、桟橋駅や稚内港は、交通の要としての機能を果たすことができました。設計を手掛けたのは、北海道大学卒業後わずか3年の若き技師、土谷実さん。彼は荒波から船を守るための設計を一人で担当し、現場での指揮も任されました。その結果、ドームは高波に強い堅牢な構造を持ち、樺太との連絡を支える重要な役割を果たしました。
稚内桟橋駅
1923年5月、稚泊鉄道連絡船の開設に伴い、稚内桟橋駅が誕生しました。当時、駅は稚内港から連絡船へとつながる小型船の待合所として機能していましたが、1938年に北防波堤ドーム内に駅が新設され、連絡船待合所としての役割も兼ねるようになりました。
樺太との連絡船航路の開設
1923年、稚内から樺太の大泊港へと向かう稚泊航路が開設され、翌年には本斗(ほんと)への稚斗航路も追加されました。これにより、稚内は樺太の開発基地として急速に発展し、樺太からの紙、石炭、魚などが内地へと運ばれる重要な拠点となりました。観光客や貨物、郵便物も稚内から樺太へと運ばれ、1923年には壱岐丸(1681トン)が、翌年には対馬丸(1800トン)が運航に加わり、航路はますます賑わいを見せました。
北防波堤ドームと稚内港、桟橋駅の歴史が教えてくれるもの
しかし、1945年8月終戦とともに連絡船と桟橋駅はその歴史を終えました。今はわずかに、北防波堤ドームやそこに設置された、稚泊航路記念碑などで、その痕跡をたどることが可能です。
今回は、北防波堤ドームや稚内港、桟橋駅がどのような背景で誕生し、どのような役割を果たしてきたのかをまとめてみました。こうした歴史を知ることで、地域の歴史を知ることの重要性が浮かび上がります。かつては樺太との重要な交通拠点として賑わっていた北防波堤ドームの周辺も、今では静かな観光地となっています。当時の賑わいを思い描くと、少し寂しさも感じますが、このエリアをめぐり、その背景を学ぶことで、稚内の魅力や意義を再発見し、後世に伝えていくことの大切さを改めて感じることができます。
北防波堤ドームへの行き方
稚内駅から徒歩5分。
参考資料
・稚内市史編纂室編「稚内市史」(1968年)、pp. 455-465、pp.1018-1021
・稚内市公式ホームページ稚内観光情報 稚内港北防波堤ドーム 北防波堤ドーム物語
・樺太記念館 展示資料