樺太への望郷の思いを歌った「ふるさとは宗谷の果てに」
「星のフラメンコ」と西郷輝彦さんの周辺の事柄を調べていくうちに、もう一つ別の曲のことを見つけました。1962年に菊地正夫時代の城卓矢さんが歌い、1966年に西郷輝彦さんが「涙になりたい」のB面曲として収録した「ふるさとは宗谷の果てに」です。
城卓矢さんは「骨まで愛して」という歌がヒットした歌手なのですが、この曲は、兄である北原じゅんさんが作曲、叔父の川内康範さんが作詞した曲です。そしてこの3人は、樺太からの引揚者でした。彼らが樺太のどこに住んでいて、引揚げの際にどのような経験をしたのかは、まだ私はよくわかっていません。NHKのど自慢で満点を獲得して、それがきっかけで横浜で歌手活動を始めたときには、横浜の「赤線」として知られた曙町で暮らしていたという説明も見つかります。
引揚げ後横浜で暮らしていた彼らが、菊地正夫、のちの城卓矢さんの歌手デビューを機に、カントリーウェスタン調で、故郷樺太への思いを歌にしたのが「ふるさとは宗谷の果てに」ということになります。この曲のリリースが1962年、稚内市に氷雪の門が作られるのが1963年です。時期が近いことになにか意味があるのかどうか。
残念ながらこの時点ではあまり注目されることはなかったこの曲ですが、1966年に西郷輝彦さんが「涙になりたい」という曲のB面として収録したことで、広く知られるようになりました。
その後の事情はよくわからないのですが、現在のデジタル配信の中でも、この曲は積極的には扱われていないようで、Spotifyなどでは、菊地正夫版はもちろん、西郷輝彦版も見当たりません。YouTubeには何件かアップされたデータがあるので、それなりの知名度があるのだとは思います。ソ連・ロシアへの配慮により、放送での取り扱いは控えられたのではないかと書いてある記事もありました。
当時の政治情勢として、そのようなことがあったのかという気もしますが、個人的には確信は持てません。
いずれにしても、この曲が、樺太に関する、あるいは稚内あたりで聞かれる、ご当地ソングとして認知されているのかといえば、そんなことはないような気がします(今度稚内に行ったらいろいろ調べてみたいとは思いますが)。
城卓矢さんはその後「骨まで愛して」という曲をヒットさせますが、この曲も今はそんなに知られていないのではないかと思います。この曲をリリースした1966年に、紅白歌合戦にも出場しているそうです。
「骨まで愛して」は、中国語圏でもカバーされていて、いくつかの言語のものがありますが、台湾でリリースされた国語歌詞の「恨你入骨」がよく知られているようです。
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