二代目店主祖父繁雄が語った一戸時計店への思い
父の生家/実家、青森県弘前市のランドマーク的な存在である「一戸時計店」の保存プロジェクト、クラウドファンディングが行われています。弘前や土手町に愛着や関心をお持ちの皆さん、応援よろしくおねがいします。
数年前、新潟在住の数少ない弘前高校同窓会(鏡ヶ丘同窓会)の先輩から譲り受けた本の中に、上山徳郎「つがる明治100年」があります。陸奥新報が昭和42年に出版したもの。
おそらく紙面のコラムをまとめたものなのですが、パラパラめくって行くと、「中土手町の時計台」つまり一戸時計店のことが書いてあります。
時計台ができたのは明治42年で、神保時次郎という人が作ったと書かれています。上の写真には、明治42年に蓬莱橋からみた時計台というキャプションが入っているので、つまりできたばかりの頃の写真ということになります。神保さんは跡継ぎがなかったため、店を西成田軍三郎という人が譲り受けて、その西成田さんが、時計台を三面に改造した、と書かれています。あれ?でも上の写真は、すでに三面になっていますね。ここは整合的な説明ができないです。
さらにいえば、今日一般的な観光情報としては、「一戸時計店は、仙台の時計店三原堂・三原時計店の弘前店を譲り受けたもの」と書かれていますが、三原さんはここに登場しません。ただ、西成田軍三郎さんは、明治30年の陸軍第8師団の設置の際に、軍隊とともに仙台から移り住んだという記述があるので、この人が仙台の三原堂と関係を持っていたと考えられるのかもしれません。
この本の中では、当時59歳だった祖父繁雄のコメントが掲載されています。
(先日一度アップした、生まれたばかりの私信哉と祖父繁雄。おそらく祖父は60代)
(70代の祖父繁雄、祖母しゅんと、私信哉。店の裏にある大きな部屋で、大晦日に年越しをした日の風景です。この部屋もすでに改装されて、だいぶ趣が変わっているようです。)
祖父は津軽弁をいつもしゃべっていたので、上の「コメント」は「翻訳」した内容のような気もしますが、還暦前の祖父の言葉、個人的にもとても印象に残りました。昭和42年に、すでに「ロートル」だった時計台が、今も街の象徴として生き続けていることになります。エッセイの最後はこのように締めくくられています。
「明治の深い味わい」、その価値を、どれぐらいの方に認めていただけるのか。今回のCFの成果を見守りたいと思います。
一戸時計店を描き続けてきた、私の父泰彦の版画作品が、返礼品の一部になります。ぜひご支援いただけたらと思います。