変わっていった自動車の運転への価値観
運転免許を取ってからもう20年以上、その間自動車に対する価値観が「所有」「運転」などにおいても変わってきました。私が免許を取ったのは大学に入学をしたタイミングで、そのまま地方の大学だったので車で通学するという生活だったため毎日運転をしていました。もちろん通学だけではなく、プライベートでも車が中心に行われていましたので、車がない生活なんて言うのは全く想像もついていませんでした。
その後、就職で東京に出てきて滅多に車に乗らなくなりました。地方への出張やプライベートで友人と遠出をするときくらいで、当時はレンタカーを借りることで自動車を利用していました。
この記事を書いていてふと思い出しましたが、当時おつきあいをしていた女性が列車が好きでトロッコ電車、地方単線、蒸気機関車、新幹線を乗るという旅行をしたことがあります。それまでは旅行と言えば車が当たり前、最低でも現地までは公共交通機関で行き、そこからはレンタカーという生活だったので不安でありながらも、自分の常識とは違う旅行にワクワクしていたのを覚えています。そして車を使わないということはお酒が飲めるということで電車に乗りながら日本酒を飲んだりととても楽しい経験でした。
その後、独立し、結婚、子どもが出来るというライフステージを過ごしてきて、今やっと車があれば便利だなという段階になりましたが、それでも首都圏に住んでいるので駐車場代をはじめとする様々なコストと電車やバスなどが発達しているので困らない点と、大量にあるシェアカーのおかげでやはりいらないなというところに落ち着いています。
そんな車歴の中でどんなふうに価値観が考え方が変わっていったのかをお伝えします。特に今回は「運転行為」についての変化をまとめます。ずっと運転を続けている方にはもしかしたらちょっとした気づきを感じていただけるかもしれません。
運転に関する価値観の変化
前述した通り、地域環境によって車に対する価値観は変わっていきましたが、自分の中で一番変わったのは「運転」に対する価値観でした。もともとは「好き」だった運転が、今は嫌いではないけれど「できればしたくない」ものへと変わっています。
もちろん必要があれば、積極的に運転という手段は使っていますが。
心に残っている教習所での一言
運転免許を取るために通っていた教習所で一番最初の座学で言われた一言がなぜか今もずっと心に残っています。それは下記のような言葉でした。
「日本の法律では運転は禁止をされています。これが原則です。しかし学科と技術両方で合格し免許を取得したときにのみ、特別に運転が許可されます」
言い回しは違ったかもしれませんが意味としてはこのような内容です。当時の私は「大人になれば車の運転は当たり前だ」という考えを持っていたので衝撃でした。「運転は特別に許されたことなんだ」と心の奥底に刻まれました。
当たり前だった車の運転
そんな印象に残る言葉はあったものの、順調に免許を取得し、毎日運転をする生活を始めていくうちにそれが当たり前の感覚へと変わっていきました。学生時代のバイトの関係もあり、様々な車にも乗りました。そのおかげかちょっと運転すれば車の重さとブレーキ性能などを把握し、うまいこと運転をしていたような気がします。
そして慣れとともに感覚としては鋭くなっていったと思いますが、今となれば油断と驕りに満ちた状態だったと思います。
社会人になり、運転の機会はぐっと減りましたが、平均すれば月1回くらいは運転をしていた気がします。その時も昔の感覚で怖さもなく運転をしていました。
家族を持ってから運転の怖さを知った
そこから数年がたち家族をもって運転に対する意識が変わります。ニュース等で自分の子供や孫に対して事故をしてしまった話や、幼い子が巻き込まれる悲しい事故話を目にして急に自分事になったんです。
もし自分の運転で我が子をひいてしまったらと思うと吐き気がするほど怖くなりました。たとえ我が子でなくても死亡事故を起こせばその方の人生はもちろんですが、我が子と暮らせなくなる、どう向き合えばよいのかなどを想像すると運転という行為の恐ろしさに本当の意味で気が付きました。
どんなに徐行をしていても、あの重さのものがぶつかれば無事ではすみません。普通に走って入ればちょっと目を離したすきに簡単に50メートル進んでしまっています。そこで事故になれば良くて怪我、悪ければ死亡事故です。一瞬で相手の人生も自分の人生も家族の人生も大きく変わってしまいます。
恥ずかしながら昔は、携帯電話が鳴れば意識がそちらに行くこともありましたし、一瞬視線を外しCDを入れ替えるなんてことがありましたが、今はそんなこと恐ろしくてできません。当時を思うと震えるほど恐ろしいです。
ここまで読んでいただいた方の中には、大げさだなと思う方も多いかもしれません。私ももし大学時代から一貫して運転をしていたら、慣れの問題できっとそう思っていたと思います。逆言えば、車を所有しない今だからこそ客観的に車の危険性を受け止められるのだと思います。もし運転をしなければいけない環境に居続ければ、この気づきがストレスになるため本能的に意識上にあがるのを避けていた気がします。
上場している社長から聞いた話
これまでご縁をいただいた方の中には上場している社長や間もなく上々という方も何人もいました。その中でも一番最初に身近で上場をしている方に教えていただいたことがあります。「上場審査の段階から車の運転を止められるようになった」ということです。
自分が運転をしていて万が一事故を起こせばすべてが終わるとステークホルダーに指摘をされ、その後上場に至った後も自身では運転をしないようにしているそうです。
もちろんこれが全てではないと思います。上場をして良い車を乗り回しているケースもあります。でも人生を終わらせるという事実もあります。自分がミスをしなくても、相手のミスで事故に巻き込まれることもあります。
運転をするというのは事故による自分自身の怪我だけではなく常に加害者になる可能性を含んでいることを意識しなければならないと思うようになりました。
当たり前に運転をしている人たちに怖さを感じるように
このような経緯がある中で街中を歩いていると、運転の慣れというか「驕り」によって危険な行為を目に入るようになりました。スマホのながら運転、目を離すその一瞬で車は数十メートルから100メートル以上進みます。しかもながら運転の方は一瞬ではなくしばらくスマホから目を離さないことが多いように感じます。
ペットを膝にのせて運転をしている方も見ます。注意力はペットに向かっていて、しかも緊急回避動きもとりづらそうな姿勢で運転をしています。
周りをぜんぜん見ないで、まるで世の中には自分しかいないかのような運転をする人もいます。
本当に恐ろしい状態ですので、子どもといるときはもちろん、一人でいるときも危険な運転がまわりにいないか周りの観察を絶やさないようにしています。
このような意識になると、以前教習所で聞いた
「日本の法律では運転は禁止をされています。これが原則です。しかし学科と技術両方で合格し免許を取得したときにのみ、特別に運転が許可されます」
という言葉の意味がより深く入ってくるようになりました。
運転ができるのは当たり前ではありません。簡単に人を殺せるもの、人生を壊せるものを動かすことが出来る「特別な許可」を受けた行為であるということに自覚したほうがよい思います。
これは車の運転をしなくても生活が出来る都市部に住んでいるからという訳ではなく、自動車社会という中においては常に意識をしておきたいことです。
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